長崎に出張した。 乗り合わせた路面電車から長崎バスジャック事件を目撃したから昭和52年の10月である。
東京駅から直通の寝台車に乗り、到着したのは長崎駅。
早速、長崎支店に出向く。 10月ということで背広着用で挨拶したが、残暑がキツイ年であった為、汗ビッショリであった。 長崎支店でも皆半袖姿で業務しており、早々に背広を脱ぐハメになった。

紹介された宿は眼鏡橋の袂にあり、万屋町や銀座町といった繁華街にも近い好位置だった。
しかし、残暑が厳しい中、持ち込んだ着替えが底を着きそうと見込んだ為 2泊程してすぐに、諏訪神社のある金毘羅山の中腹に在った当社の保養所に引越した。

保養所とは言いながら 長崎港や長崎市内を一望する好位置にあり、なかなかに凝ったホテルだった。
その為か(?)知らないが、我輩が使いたかった電気洗濯機は設置されていなかった。
洗濯機が無かったことと宿泊代が高かったこともあり、洗濯機を利用できる安い宿を新聞広告で探してみた。
大浦天主堂にほど近い場所に 「これならば」 という宿を見つけ、3泊程した保養所を後にした。 見つけた宿は、なんと(!) 階下がキャバレーになっている2階が宿というものであった。
「食事付き」 と広告された食堂は、キャバレーの隣である。 九州に多い木賃宿に食事を加味したという風情である。 隣人との境に壁は無く、カーテンで仕切る部屋(?)であった。 それでも、念願の電気洗濯機を利用することができた。 しかし、利用者が多く、順番待ちの状態であった。
長崎支店までは路線バスを利用するのだが、週の大半を現地視察に出かけるので宿に戻ることが少なかった為、「カーテンで仕切る部屋」が気にかかることは無かった。
しかし、偶に投宿した際の 「洗濯の順番待ち」 では埒が行かず、東京から女将を呼び寄せることにした。

我輩が長崎に到着した翌週には、我輩同様に飛行機嫌いの女将をJR長崎駅に迎えた。 宿に案内したら、案の定に呆れ顔である。
こうして女将と2人での長崎暮らしをはじめたが、(昼間は仕事に出かけるので知らなかったが) 昼間の宿の各部屋は、階下のキャバレーのお姉さま達の休憩所になってしまう為、女将が休憩することができないことが判った。 また、夜間同様に洗濯機の順番待ちは解消されない。 その為、諏訪神社に近い保養所に出戻ることにした。

女将が着いてから1度だけ過ごした週末は、路線バスで行ける野母崎を散策。
長崎くんち をはじめ、長崎市内観光を楽しむ。
洗濯婆さんとして呼び寄せた女将は、洗濯の都度に保養所の山をタクシーで下り、ついでに存分に長崎観光を楽しんでいたようだ。

我輩の現地視察は主に 長崎市佐世保市 間がターゲーットであった。 今にして思うに、ハウステンボスの設立ルートだったのかも?
途中の西海橋は、大浦湾と佐世保湾の針尾瀬戸に掛かる橋であり、潮の満ち干により渦潮が起こり凄い音がする。 はじめて聞いた時は、何事であろうと思ったものだ。

予定されていた仕事が3週間で片付き、最後の1週間はフリータイムということになった。
そこで、以前より訪ねたかった五島列島福江島に行くことにした。 石田城等を見学。
長崎支店が推薦した福江港傍の民宿で就寝前に掃出し窓から見えた、デッカイ満月は想い出である。

福江港から五島列島各島の港を経由して博多港。 新幹線で広島。 広島から中国山地超えの夜行急行で松江(鼕(どう)行列を見た)。 という大回りをしながら帰京し、1週間のフリータイムを大幅にオーバーすることになった。
帰京するまでは温い日が続く、残暑の中の出張であった。

帰郷してすぐ、仙台にプライベート旅行に出かけた。

<< 悪行記 に戻る >>