沖縄に出張した。 沖縄返還後だから昭和48年頃だろうか。 7月頃である。
飛行機嫌いの我輩であるが、さすがにこの時ばかりは飛行機を利用するしか方法がなかった。
鹿児島から船で..ということも考えたが、先に鹿児島出張の際に黒潮の中を走る船を体験したので、断念した。
仲間の奨めでジャンボ機を予約し、乗ってしまえば死んだふりである。

沖縄支店への挨拶を済ませ、案内されたのは波上宮に程近い波之上に在るホテル。
波之上は、那覇市でも怪しい場所であることを 後になって知った。
鹿児島出張で味をしめ、夕食はゴーヤーチャンプルーオリオンビールである。

翌日から初まった現地視察で、随行員達はみんな長袖である。
真夏の暑い時期なのになぜなのか?尋ねたところ、クーラーの効いた車内と 暑い社外の温度差には長袖が良いとのこと。
目的地は山原と呼ぶである。 沖縄本島の北部は、南部に比べて自然豊かだ。

これまでの長期出張と同様に、1度現地視察に出発すると、1週間は地元の宿に泊まり歩く。
はじめは口が重かった沖縄出身の随行員達だったが、ハブが出るかもという窪地にズンズンと入って行く馬鹿者の我輩を知るにつれて仲間意識を持ったようだ。
そのせいか、パパイヤ畑等のコース外にも連れて行ってくれた。
或る夜は、わざわざ読谷村まで電話し、村の若者にヤギの刺身を届けさせて食べさせてくれたことがあった。

沖縄支店の労働組合がキャンプ大会をした際にゲストとして呼ばれたことがある。
キャンプ場は、アメリカ軍のプライベートビーチの隣で、労働組合なればこそ利用できたのかも知れない。
真夏の沖縄ということもあり、大酒を楽しんで、朝起きたらみんなで屋外で寝ていた。 振り返って思うには あのキャンプ場は辺野古である。

沖縄出張には、カシオ製のポケコンを持参した。 随行員達は、現地視察の際その場で計算結果が出る事に興味があったようだ。
ポケコンが無ければ、当日の宿に入ってから算盤で計算していたことが、即座に判り再び現地に戻らなくても済むのだから、驚くのは当然だったかも知れない。

週末は那覇市に戻り、近郊を観光した。 
市内のお散歩に飽きると、市役所前のバス・ターミナルから路線バスで出かけた。
ある日乗った路線バスは、1日2便の往復しか無く、道の末端 (先は海) にバス停のポールが在るばかりであった。 昼食は勿論、水すら準備していなかった我輩は、次のバスが来る迄、海で泳いでいた。

当時は、波之上臨港道路が開通する頃だった。
ある日の休日、臨港道路の傍を散歩していると車座になった一団を発見...酒を飲んでいた。
我輩も混ぜてもらい、会話が弾むうちに一団は臨港道路の建設作業員だったことがわかった。
その一団の中に秋田県からの出稼ぎ者おり、返還以前の沖縄にどのようにして出稼ぎに来れたのかを不思議に思った。

ことさらに何をした訳でも無かったが、帰京旅費が足りないかも知れないことに気が付いた。
土産代と飛行機代を考えると、確かに足りない計算であった。
丁度その時 「カシオ製のポケコン」に関心を示していた随行員が、譲って欲しい旨の申し出があった。
当時の沖縄では入手しがたい物であったのだろう。
渡りに舟とばかりに譲渡し、帰京旅費に充当してしまった。

この沖縄出張で飛行機を初体験し、以降の出張では飛行機を利用するようになった。
しかし、43歳の厄年に東京湾一周クルージングをして以来、花粉症 + 蓄膿症 になり、飛行機での耳抜きができないことが多くなった。 その為、飛行機を利用した旅行は避けている。

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