秋田で産れ育った我輩が、東京に出たのは3度だけだ。
3度の上京経験以外にも、旅の途中で限りなく東京に接近することはあったが、敢えて東京に立ち寄ることは しなかった。 ひそかな憧れがあったのかも知れないが、それよりも 「東京はガチャ場」 という印象が強かった。

初めて上京したのは、小学生の頃である。 (たぶん、鹿角郡花輪町に住んでいた頃)
長距離急行列車の三等車は、板張りの狭い対面式座席だった。 (特急という物が有ったのか?判らない)
Box状の狭い座席に4名が腰かけるのだが、横になることなどができるハズも無い。
東京行の急行は毎日運行されるのでは無く、2~3日(1週間?) に1度という記憶。 その為、混雑していた。
親父はひたすら座り続けていたが、我輩の為に板を持参していた。
対面式座席の両側に板を渡すことで、子供の体格であれば横になることができた。
到着した東京ではアチコチと連れまわされたが、記憶しているのは上野公園である。
既に終戦から10年を経過していたが、傷痍軍人のフリをして傷病兵の白衣姿でアコーデオンを弾く人や、道行く人達に物乞いする者にビックリしたものだ。  親父に、「そっちを向くな」 と言われた。確かに怖そうだった。
帰郷してからは 「秋田が一番良い」 と子供心に思ったものだった。

2度目の上京は、関西方面を目指した高校の修学旅行である。
秋田駅 ⇒ 上野駅(東京駅) は、長距離特急で移動した記憶であるが、定かでは無い。
東京から奈良に向うには、当時運行を初めたばかりの新幹線を利用した。 名古屋からは観光バスという記憶だ。
乗り換えとなる東京駅で (横浜に家を建てる為) 当時は単身で東京勤めをしていた親父が出迎えてくれ、新幹線乗車迄の短い時間に、東京駅八重洲地下街の食堂で朝飯を御馳走してくれた。 その食道は、我輩が退職し東京を離れる頃にも営業していた。 当時を想い出しながら、これを食べたのでは??と思う物を食べてみた。 美味かった記憶の想い出が消えうせ、食べなければよかったと思った

3度目の上京は、社会人として勤務する為だった。また、既に完成していた横浜の自宅への転居の為でもあった。
卒業式を終えてから、同級生と共に居酒屋で祝杯を重ねまくっていたら警察に踏み込まれた。
我輩は その夜発の東京行の切符を握って逃げ列車に飛び乗ったが、同席の奴等のその後は知らない。
過去2度の上京時には、列車内で熟睡していたので途中駅の景色は およそ知らなかったが、この時は秋田との決別という意識があったのか(?) しっかりと景色を眺めながらの旅となった。
特急列車の長旅で、夜が明けてきた宇都宮駅、秋田では珍しい恰好をした女子高生が駅ホームに立つ大宮駅。 あぁ、東京に来たんだな~ という妙な感慨を抱いたものだった。
いかにも終着駅といった風情の上野駅に お袋共々降り立ち、出迎えてくれた親父と合流し、更に電車を乗り継いで横浜の新居に向かった。 しかし、なかなかに着かない。  それもそのはずである。
秋田の田舎者の我輩は、「横浜と言っても東京の一部...」 という理解であったのだ。
しかし、東京と横浜は別物であり、列車内で東京に近づいたと思った宇都宮駅や大宮駅は 東京とは無縁の地であることを後日になって理解した。 ※東京駅 ⇒ 品川駅 ⇒(京浜急行)⇒ 横浜駅 ⇒ 金沢文庫
卒業時の担任教師の言葉。 「東京で林檎を食う時は、良く洗え。 ワックスが塗ってあるぞ」

当時流行っていた歌 「スタコイ東京」
 歌詞
歌:菊地正夫 作詞:北原じゅん 作曲:北原じゅん




それからは、東京者のフリをしている。 「秋田に行こう」という気持ちも薄い。 「帰ろう」という気持ちは皆無である。
昔の上京手段で それしか無かった長距離列車は、新幹線に替わり、24時間に亘る長旅をすることは無くなった。
今 東京で出稼ぎする者・故郷を離れた者にとって、故郷は遠くない。 
我輩にとって、故郷は無い。 死に場所は、当地だ。 もう、上京することも....

東京の灯よいつまでも
 歌詞
歌:新川二朗 作詞:藤間 哲郎 作曲:佐伯 としを