過日、「言葉の意味」を書いた。 改めて考えてみる。
日本人は、言葉を言及して会話や文章を書くことをしない民族なのかもしれない。
身近な会話(日本語)では、主語から話す日本人は少ない。 しかし、英語では主語から話さなければ意味を成さない。  ※最近の日本人は 「私が..」 とはじめる自己主張が多くなってきたが。
それでも意志疎通できる日本人は、阿吽の呼吸(?) 暗黙の了解(?) があるということだろう。 しかしその暗黙の了解が異なった理解であった場合は、話し手と聞き手の間で意志疎通が図れなかったということだ。
契約書というものは日本文化の歴史では存在しなかった。 契約書とは 「相互が確認した事を、文書化してそれを互いに取り交わす物」 である。 西洋文化では一般的(必然的)な契約書であるが、日本では 「上位の者が下位の者に対して告知文を与える」 ことで済まされてきた。 ※下位の者から受取書を返すことも無い。
文章の記述に疑義・相違が有ったところで、訂正するということが無い文化が日本人だったのだ。
俳句を例にとると、その文章の中で用いられている言葉(単語・語)をめぐり 相違する解釈論が存在するようだ。
言葉の解釈に関する相違が有りながら、反面 「季語」 なんて~約束事があるとのこと...無知な我輩には理解しがたい。 言葉遊び と思えばそれだけのことだが、その道の人に言わせるとそんな物では無いらしい。
しかし、作成者(俳人)の意図することを、後の人達が どのようにでも解釈できる文章というものは如何なものか(?)。
とはいうものの、小説・随想・詩 等は、どのように解釈するかは、読者の自由ということかも知れない

(我輩が学んだ時代の)義務教育の国語や美術で学ぶことも然りである。
国語では、某小説を取り上げ感想を求められ、教科書どおりの感想でなかった場合は矯正される。
美術でも同様に、某絵画の感想を求められる。 教科書に 「寂しい雰囲気」 とされる絵に 「楽しい雰囲気」 との感想を持つ者は矯正される。
言葉とは異なり、絵画を美しいと思うか(?) どのように感じるか(?) は見る者の自由なのではないだろうか

小説・随想・詩・絵画 等は、どのように解釈されたところで世の中に実害が無いだろう。
しかし、法律等 解釈が異なることにより実害が有る文書も有る。
にも関わらず、法律の解釈論をめぐって未だに紛争が絶えないことは嘆かわしい。
政治家の発する言葉をマスコミは それぞれ解釈する。 マスコミの解釈と一致する評論家をテレビ出演させ、代弁させる。
元文が曖昧なのに、更に曖昧な解釈論が加味され、それがそれぞれ1人歩きするのだから、世の中がまとまるハズが無い。
このことは、いくら書いても切りが無いので、こんなことでおしまいにしよう。
政治家いわく、「原発を廃炉する方向で考えたいと思っています。」
これは、「廃炉する」 との発言では無い。
考えたい思ってる」 ことを述べている言葉である。 同義語を重ねることで、言葉の意味合いをより一層薄めている。
ましてや、「廃炉する方向で考えたい」 のであり、「廃炉することを考える」 ことでは無い。
短慮に切れば、意味の有ることは何ら述べていないということだ。
この言葉を 「廃炉する」 と取るのは、聞いた人が勝手に 自分の聞きたいように美化して拡大解釈したということだ。

人を騙すことを思案する人は、国会中継を見て勉強するべし