今日は新幹線で妻が出かけた先日の続きで、当地石川県から神奈川県の歯医者で治療を受けるためだ。

出かけるに際し、コンビニで写真を撮ってきた。 マイナンバーカードを作るための写真だ。
マイナンバーは昨年告知があり、いつでもカードの申し込みをすることができた。
妻自身も将来的に独り身になった時を考えたのだろうか、進んでカードを作る意志を示していた。
しかし、何故か必要な写真を撮りに行こうとしなかった。 怪訝には思うものの、急き立てることもせずにいたら、旅立ちという前日の昨夜、コンビニに写真を撮りに出かけた。
腰痛のため、徒歩5分程のコンビニにも出かけることが少ない妻であったが、同行の申し出を辞退して、一人で出かけた。 上京にあたり美容院に行ったばかりでなく、写真を撮るために薄化粧をしたことを俺は知っていた。
コンビニの店員に手伝ってもらって撮ったと言って見せられた写真には、見たこともないような老婆が写っていた。

ひどい写りであると言う俺に、妻は「10年後にはこんな顔になるのだから良い」と言う。
それはそうかとも思うものの「こんな写真をマイナンバーカードに貼られても、俺の妻だ」とは言いがたいほど他人に見える。撮り直しを薦めたが、結局はその写真で良いということで落ち着いた。
もともと妻は、結構開き直ることがある性格だから、写真の写りなんそは気にしなかったのかも知れない。
しかし、薄化粧までしてでかけたことから推察すれば、あながち“気にしていない”とばかりも思えない。

若いころの妻は、俺の友人からも褒められるほどの美人であった。殆ど化粧はしなかったが、それでも美人だった。
カメラを向けても殊更気にかけることはなさそうにして撮られていた。
しかし、古稀の声を聞く頃から、カメラを向けられることを避けているような風情が見受けられた。
撮影する俺にとっても、“美しかった妻”が婆さんに変わっていく時間が見えていた。 だから、カメラを向けないようにしていた。
俺の母も、カメラを向けられる事を嫌がっていた。若い頃にはそんなことは無かったようだが、現在の妻くらいの年回りになってからは写真を撮られることは極端に嫌がっていた。
若くて美しさに自信がある頃には写真を撮られることには抵抗が無く、そうでなくなると嫌がるということだろうか。

マイナンバーカードに写真を貼るという想定外の必要性が起こらなければ、気が付かなかったことだった。
久しぶりに妻の顔写真を撮ったこと。そして、その写真に写る顔は、いつも見慣れたものではなかったこと。
自分の顔写真に対する妻の気持ち。 そして、それを見た俺の気持ち。 改めて気がつくことがあった。

妻が出かけ、俺はひとりで昼食の支度に取り掛かる。 なにか知らないが、とてもさびしい。

写真に写る妻の顔は、一つの現実だ。 その現実は、生身の顔が“生きて、笑い、話す”ものとは違う。
この度の写真以外に、写真屋さんに出向いて撮り直しておこうと強く強く思っている。
あんな顔写真じゃ、閻魔様の前に座っても他人と思われて良い裁きをしてもらえまい。

笑顔で「あの写真で良い」と、妻は言って出かけた。 俺は午後にマイナンバーカード発行申請書を投函する。
投函してしまえば、それで作られる。あんな写真をこれから先は身分証明書代わりに所持する彼女を不憫に思う。
なぜか泣きたい気分だ。 タバコでも吸えば気分転換になるのだろうか。 俺が死んだ後も、達者で生きてくれ。

子供がおらず、二人だけの我が家では、口を動かすことが少なく表情に乏しいのだろうか。
話さなくとも阿吽の呼吸で相手の考えが読めるから、話すことが少なくなってしまう。
会話する機会が少ない事と、表情の乏しい事、そして老け顔の写真...は関連があるに違いない。

女将は庭いじり(屋外)、俺はパソコン(室内)と、互いの趣味の場が違うことから会話の場が少なかった。
俺が間質性肺炎になって禁煙生活になる前は食事の際に、(俺の糖尿病を気遣って少々ながら)発泡酒を飲みながらタバコを吸いながらのお話時間も少なくなった。
むしろ、喫煙する女将と、禁煙の俺とは、過す部屋が別々になり、会話の時間が減ってしまった。

そんな状態で生きているより、酒も煙草も思う存分に味わって、太く短い人生も悪くはないと改めて考えたりもする。
そんな事を考えるよりは、会話の機会を増やして、喜怒哀楽の表情を増やすことを考えよう
何故か不憫に思う女将だが、可哀想に思わないから自分で強く生きて欲しい。  過去記事:悲しい日々が続くの?