古代ロマン 大陸との交流 - 徒然なか話」を拝読し、遣唐使船とはどんな物だったのか関心を持った。
WikiPedia:遣唐使より抜粋引用
中国では618年が滅びが建ったので、それまで派遣していた遣隋使に替えてこの名称となった。寛平6年(894年)に菅原道真の建議により停止された。
高岡市万葉歴史館>>遣唐使船の模型
によれば『大きさは長さが30m、幅7~8m、帆柱2本で平底箱型。鉄釘はほとんど用いず、平板をつぎあわせて造ってありました。そのため波切りが悪く、不安定で、強風や波浪に弱いという欠点がありました。』

1300年前の「遣唐使船」が復活!万博・遷都祭で(2010/06/12)


北前船の御用商人は加賀藩にも(銭屋五兵衛)が居たが、歴史資料館は少ない。 ※石川県銭屋五兵衛記念館

遠き日の勇者の物語~白村江の戦と大伴部博麻~


日本の歴史を眺め、古墳時代高句麗新羅を眺めると、朝鮮戦争以降の半島南北の対立関係と変わらないようだ。 これは、飛鳥時代になっても同様と見る。また、朝鮮の歴史から後三国時代高麗を眺めても変わりはない。 最近の歴史だけを眺めれば、南北朝鮮が喧嘩仲になった理由は第二次世界大戦末期にアメリカ軍とソ連軍の分割占領ラインとして38度線が定められた事に始まったかのように見る人もいるかもしれないが、民族性の問題なのではないだろうか。 日本にしたところで、白村江の戦いと同様に、チロチロと首を突っ込みたがる民族性なのだろう。
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