宮沢りえ氏が再婚した。
少女の頃には芸能界入りしもて囃された女性だけあって、未だに美しいかな(?)
とは言うものの、世の中的には彼女以外にも美女と思える女性は多い。 (WikiPedia:美人)
人ぞれぞれの好みはあるだろうし、悪く言えば「蓼食う虫も好き好き」である。
しかし、自己主張の少ない多くの日本人は、世の中が美女だと言えば自分にもそう見えているのだろう。
マスコミに美女として取り上げられられれば、自分の意見は置いてでも大勢に流される。
韓国のオリンピックには北朝鮮の「美女軍団」とやらが出没したとやらで、マスコミは大騒ぎであった。
あの程度で騒ぐのならば、自身の周辺は美女だらけだろうと思うのだが、身近には目が向かないようだ。

俺が色気付いた頃の芸能界などには、美女は少なかった。
と言うよりも、本当の美女は人前に姿を現すことは無く、その存在を知る事が無かったと言うべきだろう。
いわゆる「深窓の御嬢様」は、大衆の目に触れる事はしなかったということだ。
団塊爺としては、先輩達が美人と評価する芸能界の女性が美人には見えない。当時は芸者を本業とする女性が芸能界にも進出した時代だろう。詩人でも水商売でも美人とは言い難い。堅気の美人は人前には出てない。
今では、猫も杓子も人前に出たがり、有名になりたがっているらしい。しかし、そんな輩ほど大した面相の者はいない。それにも関わらず、取り巻きをはじめマスコミは美女を連呼し、大衆は美女だと思い込む。
他の皆が美女と言う者を、「美女ではない」と言うことで仲間外れされるのを怖がるがごとしである。

最近の美女は誰なのだろうか。
俺が若い頃に美女の数は少なかった。少ない美女は名前を憶えられた。
美女だらけの最近では、名前を覚えられない。
とは言うものの、美女と呼ばれる女性が多くなった現在でも、本当の美女は大衆の前には立たないと信じる。

俺的には、美女の好みは無い。太かろうと細かろうと、ロンパリの目だろうと、誰でも美女に見えてしまう。
また、美女と呼ばれる女性の基準があるわけではあるまい。美しさとは、心の、自信の表れだろう。
若いうちは自分の容姿・行動に自信があり、その自信が美しさとして表れている。
注目されている限り、注目に応えようとしている限り、自信は保てるだろう。
若い頃は大威張りでカメラの前でポーズをとっていた女性達は、歳とともにカメラを向けられる事を嫌がる。
朴念仁としてはあの女性の行動・心理がわからない。彼女達は、昔はカメラ目線に自信が有ったのだろうか。
うぬぼれ鏡 を買おう。
関連過去記事:デヴィ夫人:考 / 華やかでなければ / 「女」 と 「女性」写真を撮ろう-想い出作り / 人相は変えられる / カメラと鏡
お久しぶりね小柳ルミ子