昔のテレビ番組「クイズダービー」のキャッチコピーは、『知力・体力・時の運』であった。
人様の事は言えないが、最近の年寄りには体力すなわち健康にやたらと気遣っている人達が多い。

俺が覚えている時代だけで考えても、最近の日本人は寿命が延びた。つい最近までは、男の場合は退職するとガックリとくる人が多かった。国民年金を貰うまで生きていられなかった人が多かったように思う。
最近では、年金が少ないとか、健康がどうしたとかぼやきながらも、長寿の人が多くなったようだ。

そして、健康維持すなわち体力維持に努めている。
健康で長生きすればするほど、いわゆる認知症になるリスクが増えるのではないだろうか。
体力と知力は同時に維持できるのだろうか。 そもそも、長生きして何をしたいのだろうか。
あれは「長生きしたい」のではなく、「死にたくない」と言うべきなのではないだろうか。
関連過去記事:長生きのリスクを思う / 死への恐怖心:考生への執着心は / 病気するのも金次第 / 輪廻する関心事

人間がオギャーと生まれてから死ぬまで、自分なりに何かをしている実感を抱ける期間を全うしている人は少ない。
「生きるとは?」と言う大命題を考えずに、簡単に言えば無駄に生きているとも言えるだろう。
しかし、ナポレオンのように52歳の人生でゼロからフランス皇帝になる人もいる。始皇帝は48歳、チンギス・カンは65歳の人生で、ゼロから始めて広大な帝国を築き頭になった。

「健康に生きる事」を目的に長生きする事は楽しいのだろうか。
「生きる為に食うか、食う為に生きるのか」 の議論と同様に、「健康だから生きるのか、生きるから健康なのか」 と疑問也。 いずれにしても、いたずらに健康で、闇雲に長生きしたところで....
長生きする事を目標とするのではなく、生きる目標を見出して生きたいものだ。長生きは結果である。
百歳まで生きる事を唱える年寄りは多いが、100m競走の目標ではあるまいしと言えば叱られるだろうか。

NHKの「チコちゃんに叱られる!」ではないが、「ボーッと生きてんじゃねえよ!」

単独、無酸素による高峰登山に拘っていた登山家が死んだ。無謀との声も聞こえる。しかし、それも生き方也。
「無酸素登山、心配してた」 旧知の人々、栗城さん悼む:朝日新聞デジタル