無無無庵

(むさんあん) - 思考が無く - 躰が無く - 心が無く
団塊世代のセカンド・ステージ - 退職親父のボケ封じ

悪行記

後生掛温泉の今昔

WikiPedia引用
後生掛温泉(ごしょうがけおんせん)は、秋田県鹿角市(旧国陸奥国、明治以降は陸中国)にある温泉。
岩手県と秋田県県境の八幡平(火山)山頂から少し西側に位置し、八幡平アスピーテライン沿いにあり、山の中にしては比較的交通の便がよい。
「馬で来て下駄で帰る後生掛」と謳われたように、昔から効能の高い湯として知られている。
後生掛温泉は昔からの湯治宿で、一温泉一軒宿だが、外見上は、「本館」「新館」「湯治棟」に分かれている。
湯治宿の面影を色濃く残す湯治棟は自炊が基本。
宿舎の床下に蒸気を通して暖める「オンドル構造」になっていて、自室で寝ているだけでも湯治効果があるという。
大浴場はかっては全て混浴であったが、今は男女別となっている。
木製の箱の中に頭部だけ出して入り、蒸気で温まる「箱蒸し風呂」は、昔、「原始トルコ風呂」と呼ばれていたころから後生掛温泉の名物となっている。
ほかに「露天風呂」「泥風呂」「火山風呂(気泡浴)」「打たせ湯(滝風呂)」などもある。日帰り入浴も可能。
源泉は4種類。宿の裏側には泥を吹き上げる墳気口や泥火山などを観察できる「後生掛園地」がある。
宿は秋田焼岳の登山口にもなっている。また足湯も設置されている。
高温の源泉を利用して作られる温泉卵が名物。
硫黄分が多いため、卵の殻が黒く変色しているのが特徴である。

後生掛の地名の由来には以下のような伝承がある。
約300年前に、三陸地方出身の九兵衛というものがこの地に住んでいた。九兵衛が重病で苦しんでいた際、恐山巡礼の途中の女性の看病を受け、回復後その女性とともに暮らした。3年後、三陸から九兵衛の妻が当地にやってきた際に、巡礼の女性は源泉地の谷に身を投げた。それを知った九兵衛の妻もまた、「後生」を「掛」けて源泉の谷に身を投げた。以降この地を後生掛と呼ぶようになり、また源泉をオナメ(妾)の湯、モトメ(本妻)の湯と呼ぶようになった。
昭和34年9月3日、後生掛温泉を含む八幡平温泉郷国民保養温泉地に指定。

DSCF0074


鍋・食器等の炊事道具一式をレンタルすることができ、食材も湯治部の売店で揃えることができる。
通の人達は、家族が運転する車で送迎され、一週間程度の食料を持参する。
持参した食料が無くなる頃、「湯治見舞い」と称して、食料を持った家族が遊びに来るという仕掛けなんだね~。

昔の後生掛温泉です。
古い写真をデジカメで写したので、画像が荒れてます。
orig_DSCF0052

下は、当時の蒸し風呂です。
orig_DSCF0054


この写真を撮った頃の後生掛温泉HOTELに行く道は、現在と違います。
現在は、ホテル部の東側(山側)に立派な道路が通じていますが、あの道はアスピーテが開通した際に作られたものでしょう(たぶん?)
以前、後生掛温泉に行く道は、現在の浴場棟に抜けるように通っていました。
後生掛温泉HOTEL山水館の在る位置付近に赤川温泉・澄川温泉から抜ける道があり、その道から小川に沿って小道が有り、蒸ける沼の中を通って湯治部小屋に出ました。
湯治部小屋からは浴場棟が正面で、湯治部受付棟やHOTEL棟は見上げる位置にあり、湯治部しか泊まったことの無い子供の小生には「千と千尋の神隠し」のホテルのように見えました。
くだんの蒸し風呂は、前述の湯治部小屋よりも手前側の蒸ける位置に建てられた小屋に在りました。5年程前に訪問した際には、小屋の残骸木片が有りました。
写真でも判るかと思いますが、6個設置されていましたね。



関連過去記事:八幡平温泉郷の昔

写真共有サイト「フォト蔵」
2001年09月-秋田八幡平
2004年07月-秋田八幡平
2004年11月-秋田八幡平
2006年09月-秋田紀行

札幌出張記 (B)

いつ頃の出張だったろうか?? 11月の最初だったことは間違いない
札幌市営地下鉄東西線(琴似駅 - 白石駅)は既に開業しており、暇つぶしに白石駅まで乗車した記憶。
休日に到着して暇だった為、1ヵ月間の宿に荷物をほおり込み、藻岩山手稲山に観光に出かけた。
麓では背広姿でOKだったのに、ケーブルカーの途中から雪が降り出して、山頂から方法の体で降りてきた。

北海道神宮定山渓温泉が記憶。

沖縄出張記

沖縄に出張した。 沖縄返還後だから昭和48年頃だろうか。 7月頃である。
飛行機嫌いの我輩であるが、さすがにこの時ばかりは飛行機を利用するしか方法がなかった。
鹿児島から船で..ということも考えたが、先に鹿児島出張の際に黒潮の中を走る船を体験したので、断念した。
仲間の奨めでジャンボ機を予約し、乗ってしまえば死んだふりである。

沖縄支店への挨拶を済ませ、案内されたのは波上宮に程近い波之上に在るホテル。
波之上は、那覇市でも怪しい場所であることを 後になって知った。
鹿児島出張で味をしめ、夕食はゴーヤーチャンプルーオリオンビールである。

翌日から初まった現地視察で、随行員達はみんな長袖である。
真夏の暑い時期なのになぜなのか?尋ねたところ、クーラーの効いた車内と 暑い社外の温度差には長袖が良いとのこと。
目的地は山原と呼ぶである。 沖縄本島の北部は、南部に比べて自然豊かだ。

これまでの長期出張と同様に、1度現地視察に出発すると、1週間は地元の宿に泊まり歩く。
はじめは口が重かった沖縄出身の随行員達だったが、ハブが出るかもという窪地にズンズンと入って行く馬鹿者の我輩を知るにつれて仲間意識を持ったようだ。
そのせいか、パパイヤ畑等のコース外にも連れて行ってくれた。
或る夜は、わざわざ読谷村まで電話し、村の若者にヤギの刺身を届けさせて食べさせてくれたことがあった。

沖縄支店の労働組合がキャンプ大会をした際にゲストとして呼ばれたことがある。
キャンプ場は、アメリカ軍のプライベートビーチの隣で、労働組合なればこそ利用できたのかも知れない。
真夏の沖縄ということもあり、大酒を楽しんで、朝起きたらみんなで屋外で寝ていた。 振り返って思うには あのキャンプ場は辺野古である。

沖縄出張には、カシオ製のポケコンを持参した。 随行員達は、現地視察の際その場で計算結果が出る事に興味があったようだ。
ポケコンが無ければ、当日の宿に入ってから算盤で計算していたことが、即座に判り再び現地に戻らなくても済むのだから、驚くのは当然だったかも知れない。

週末は那覇市に戻り、近郊を観光した。 
市内のお散歩に飽きると、市役所前のバス・ターミナルから路線バスで出かけた。
ある日乗った路線バスは、1日2便の往復しか無く、道の末端 (先は海) にバス停のポールが在るばかりであった。 昼食は勿論、水すら準備していなかった我輩は、次のバスが来る迄、海で泳いでいた。

当時は、波之上臨港道路が開通する頃だった。
ある日の休日、臨港道路の傍を散歩していると車座になった一団を発見...酒を飲んでいた。
我輩も混ぜてもらい、会話が弾むうちに一団は臨港道路の建設作業員だったことがわかった。
その一団の中に秋田県からの出稼ぎ者おり、返還以前の沖縄にどのようにして出稼ぎに来れたのかを不思議に思った。

ことさらに何をした訳でも無かったが、帰京旅費が足りないかも知れないことに気が付いた。
土産代と飛行機代を考えると、確かに足りない計算であった。
丁度その時 「カシオ製のポケコン」に関心を示していた随行員が、譲って欲しい旨の申し出があった。
当時の沖縄では入手しがたい物であったのだろう。
渡りに舟とばかりに譲渡し、帰京旅費に充当してしまった。

この沖縄出張で飛行機を初体験し、以降の出張では飛行機を利用するようになった。
しかし、43歳の厄年に東京湾一周クルージングをして以来、花粉症 + 蓄膿症 になり、飛行機での耳抜きができないことが多くなった。 その為、飛行機を利用した旅行は避けている。

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長崎出張記

長崎に出張した。 乗り合わせた路面電車から長崎バスジャック事件を目撃したから昭和52年の10月である。
東京駅から直通の寝台車に乗り、到着したのは長崎駅。
早速、長崎支店に出向く。 10月ということで背広着用で挨拶したが、残暑がキツイ年であった為、汗ビッショリであった。 長崎支店でも皆半袖姿で業務しており、早々に背広を脱ぐハメになった。

紹介された宿は眼鏡橋の袂にあり、万屋町や銀座町といった繁華街にも近い好位置だった。
しかし、残暑が厳しい中、持ち込んだ着替えが底を着きそうと見込んだ為 2泊程してすぐに、諏訪神社のある金毘羅山の中腹に在った当社の保養所に引越した。

保養所とは言いながら 長崎港や長崎市内を一望する好位置にあり、なかなかに凝ったホテルだった。
その為か(?)知らないが、我輩が使いたかった電気洗濯機は設置されていなかった。
洗濯機が無かったことと宿泊代が高かったこともあり、洗濯機を利用できる安い宿を新聞広告で探してみた。
大浦天主堂にほど近い場所に 「これならば」 という宿を見つけ、3泊程した保養所を後にした。 見つけた宿は、なんと(!) 階下がキャバレーになっている2階が宿というものであった。
「食事付き」 と広告された食堂は、キャバレーの隣である。 九州に多い木賃宿に食事を加味したという風情である。 隣人との境に壁は無く、カーテンで仕切る部屋(?)であった。 それでも、念願の電気洗濯機を利用することができた。 しかし、利用者が多く、順番待ちの状態であった。
長崎支店までは路線バスを利用するのだが、週の大半を現地視察に出かけるので宿に戻ることが少なかった為、「カーテンで仕切る部屋」が気にかかることは無かった。
しかし、偶に投宿した際の 「洗濯の順番待ち」 では埒が行かず、東京から女将を呼び寄せることにした。

我輩が長崎に到着した翌週には、我輩同様に飛行機嫌いの女将をJR長崎駅に迎えた。 宿に案内したら、案の定に呆れ顔である。
こうして女将と2人での長崎暮らしをはじめたが、(昼間は仕事に出かけるので知らなかったが) 昼間の宿の各部屋は、階下のキャバレーのお姉さま達の休憩所になってしまう為、女将が休憩することができないことが判った。 また、夜間同様に洗濯機の順番待ちは解消されない。 その為、諏訪神社に近い保養所に出戻ることにした。

女将が着いてから1度だけ過ごした週末は、路線バスで行ける野母崎を散策。
長崎くんち をはじめ、長崎市内観光を楽しむ。
洗濯婆さんとして呼び寄せた女将は、洗濯の都度に保養所の山をタクシーで下り、ついでに存分に長崎観光を楽しんでいたようだ。

我輩の現地視察は主に 長崎市佐世保市 間がターゲーットであった。 今にして思うに、ハウステンボスの設立ルートだったのかも?
途中の西海橋は、大浦湾と佐世保湾の針尾瀬戸に掛かる橋であり、潮の満ち干により渦潮が起こり凄い音がする。 はじめて聞いた時は、何事であろうと思ったものだ。

予定されていた仕事が3週間で片付き、最後の1週間はフリータイムということになった。
そこで、以前より訪ねたかった五島列島福江島に行くことにした。 石田城等を見学。
長崎支店が推薦した福江港傍の民宿で就寝前に掃出し窓から見えた、デッカイ満月は想い出である。

福江港から五島列島各島の港を経由して博多港。 新幹線で広島。 広島から中国山地超えの夜行急行で松江(鼕(どう)行列を見た)。 という大回りをしながら帰京し、1週間のフリータイムを大幅にオーバーすることになった。
帰京するまでは温い日が続く、残暑の中の出張であった。

帰郷してすぐ、仙台にプライベート旅行に出かけた。

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仙台出張記

出身地に近い為か(?)、何故か東北地方への出張は少ないのだが、仙台市は何度となく行った。
業務を仕切る立場になってからは最低でも年に2度は行った。 また、プライベートでも何度も行った。
その為、いつ行ったときのことか(?)記憶が定かで無いが、少なくとも30回近い仙台探訪記をまとめてみよう。

P1000421

初めて仙台に行ったのは高校時代である。 秋田から貸切バスで鳴子ダムを見学してからのことだ。
高校時代には、ヒッチハイク旅行や 東北一周旅行、登山の途中立ち寄りにも、東北の大都市である仙台は訪ねた。

社会人となって初めて降り立った仙台駅周辺は、高校時代のそれと変わっていなかった。
当時の国鉄仕様の駅舎を出ると、路面電車が走っていた。
夜は小さな居酒屋が立ち並び、塩釜漁港で水揚げされた珍しい海産物をツマミに地酒を堪能することができた。
隣の客の会話が聞こえる小さな居酒屋では客同士が親しくなるチャンスが多く、酔っ払い同士で 「これから、作並温泉に行こう」 とか 「塩釜に行って飲み直し」 なんて~ことがあった。

次に訪れた仙台駅は新幹線が開通する為にピカピカの駅になっていた。 駅前では地下鉄工事が行われていた。
道路に並んでいた小さな居酒屋の殆どがビルの中に収容され、代わりに居酒屋チェーン店の看板が目立つようになっていた。
東京でも食べられるようなツマミしか出ない居酒屋チェーン店では、牛タンなんちゅ~物が名物になっていた。
以前より牛タンは有ったようだが、我輩周辺の仙台市民は高級嗜好で 海産物を好み、東京から来た客人を牛タンなんて珍奇な物で もてなすことを恥ずかしいこととしていた。
我輩は牛タンという物が好きになれない。 あんな物を食すのなら、牛肉が良い。
牛タンの持ち主である牛の肉は、どこにいったのだ
そんな夜の街になっても、変わらないのは国分町である。



第二の人生を暮らす場所探しに 「愛子駅」や「北仙台駅」を訊ねたが、1年と経たずに東日本大震災が発生した。


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北見出張記

北海道の北見市に1ヶ月の出張をした。 先の札幌出張の後だから、昭和46年頃だろうか。

飛行機嫌いとしては、東京駅-青森駅間を長距離列車で、青函連絡船に乗り、朝に札幌駅で石北本線に乗り換え北見駅に到着するようにルート設定した。
先の札幌出張の際 厚着して風邪を惹いたことに懲りたこともあり、出張時期が初秋だったこともあり、軽めの服装で鉄道に乗ることを心掛けた。
話が飛ぶが....今回 北見に出張となったのは、「我輩の前に北見に出張した先輩が失踪し それを捜索する」 という隠れたテーマが有った。 失踪事件が無ければ、我輩は夏の出張予定だった。
北見に到着するなり出張旅費として30万円程を受け取った先輩が、歓迎会の後でキャバレーに行った迄は知れていたのだが 以降行方不明となり、「金を盗られて、北海道の荒野に捨てられたのでは」 とか 「キャバレーのお姉さまに騙されて、監禁されているのでは」 とかのことで、内密ながら警察騒ぎになっていた。
高卒の給料が2万円程度の頃の30万円だったから、盗られて殺される事も想像された。
東京の支店長迄が捜索に出向く騒動になったが見つからず、我輩が出張を終えて帰京してから半年後、札幌でタクシードライバーをしているところを 偶々乗り合わせた東京からの出張者により発見された。
そんな事情もあっての出張だった為、昼過ぎに到着した北見事務所で挨拶を済ませると 失踪者と同じ東京者に向けられる視線を感じながら早々に宿に入ることになった。 出張旅費の支払いは帰京時迄お預け
宿は、1部屋に2~3名が泊まるタイプの和室だった。 昔はよくあるタイプの宿である。

勤務時間が過ぎると、他の支店からの出張者達が宿に戻って来て、我輩と相部屋となる相方と顔を合わせた。
夕食を済ませ、歓迎会も無いままに ブラリ町に出かけた。
キャバレー・スナックが乱立する五条通りでは客引きが多く、どうも入店する気になれない。 食事後だったので、やたらと目立つ焼肉屋も考え物...等とぶらつくうちに 田舎町にしては小奇麗な飲み屋を見つけた。
結局 北見滞在中は その飲み屋で飲むことを楽しみにしていた。
うら若いママさんの 嘘か本当か わからない身の上話に絆されて、帰京する際に中島みゆき氏のレコードアルバムをプレゼント。

北見事務所から紋別の現場視察に社用車で出向いた帰り、途中の山道で車の鼻先が見えない程の濃霧に出くわし、車を降り歩いて先導したことは怖い記憶である。

帰京時に札幌に向かう特急で 網走刑務所を出所した元・受刑者と仲良くなり、彼が焼いたというトックリを頂戴し想い出の品となった。

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鹿児島出張記 (2)

鹿児島出張記 (1) に続く
案内された宿は、鹿児島の民放デレビ局に近い場所にある当社の保養所であった。 

夕食時に東京弁で話しているのを聞きつけ、やはり東京から出張していた者が話しかけてきた。
聞けば我輩と同日に鹿児島に到着したのだが、各地の観光をさせてもらっていた我輩と違い、まじめに鹿児島支店の事務所で仕事をしていたらしい。
その為、宿の先輩ということになった。 後日になって歳を明かしあったところ、人生も先輩であることが判ったが、酒量で勝った我輩が親分ということになった。

翌日の土曜は路面電車に乗り、「鹿児島に来たならば、ここだろう」 と考えていた天文館に行ってみた。
当時流行のキャバレーが、なんと昼間から営業しており、客引きのオッチャンがやたらと声を掛けてくる。
「こんな時間からキャバレーでもあるまい」 と思いつつ、さりとて居酒屋に入るのも芸が無い...ということで、近所の城山に行ってみようと思った。
途中の道すがら、土産物を買おうと思い立ち 「薩摩揚げ」 の看板を探しても無い。 
すれちがった土地の人に尋ねたら、鹿児島では 「つけ揚げ」 と呼ぶとのこと。 その看板なら、アチコチに有った。 ついでにお奨めの店を伺ったところ、「つけ揚げ」 を作っている所を紹介して下さった。
早速その店に向い、奨められるままに揚げたて「つけ揚げ」を試食したところ、まっこと美味い。
焼酎まで出され、しかっかりと試食を堪能した我輩は、予定していた観光を取り止めて宿に帰り、お昼寝と相成った。

明けて日曜、宿で飲む焼酎に飽き足らず、以前から先輩が行きたかったという 近くの鮮魚を出す飲み屋に行く。
新鮮な魚で飲むうちに、すっかり店主と仲良くなり、一見は参加できないという 「釣り友の会」 に入会した。
おかげで、鹿児島滞在中2度、無料でツーリングを楽しむことができた。

翌週は 過日の現場視察結果を取りまとめる為、鹿児島支店の事務所で まじめに仕事をした。
宿の庭に ゴーヤー が植えられているのを発見し、調理場に話して 「ゴーヤーを刻んで、刻んだ削り節を掛けた物」 を丼に貰い焼酎のツマミにした。
「こんな物で良いなら」 ということで 毎日作ってもらえることになり、宿に泊まった日は毎夕食に丼に一杯出してもらった。
ゴーヤーをツマミに宿で飲み、たまには友の会の鮮魚居酒屋に顔を出す生活を送りながら、それでも仕事は真面目にやったらしい。
お奨めスポット
  • デパート「山形屋」の最上階(7階)に在る大食堂の窓から、桜島を眺めながら長崎皿うどん風の固焼きそばをツマミにビールを飲む。
  • 名山堀飲食街は、下町の長屋風で、懐かしい飲み屋街。
2週目の週末に完成品を納入したところ、「予定していた、支援していただきたい業務」 は以上です...ということで、3週目は種子島、4週目は奄美大島に現地視察 (観光) ということになった。

船で行く種子島には、台風が接近した為2泊した。
奄美大島には飛行機で行かなければならず渋っていたところ 随行者が気配りしてくれ、行ったフリして実は随行者宅に1泊しブラリ観光となった。 JAZZ好きの人で、1部屋を潰して音響装置があった。
その他の空き日については、運転手付きで鹿児島県内の観光ということになり、指宿やら色々と連れて行かれたが二日酔い状態の為、どこに行ったのか(?)は記憶に無い。
種子島や指宿の浜で泳いだな~~と、ウスラ思い出す程度か...
勉強になったこと
  • 明治時代の警官が威張る様子として用いられる言葉..「おい」、「こら」、「ビンタ」 の言葉は、鹿児島弁が標準語になったものだそうだ。  確かに警視庁勤めには鹿児島出身者が多いな~
  • ナンコ遊び」 は、誘われても やらないこと。 殺されるヨ
曽木の滝は、一見の価値あり。 桜島フェリー船内の立ち食い饂飩が美味い。


高千穂峡に行けなかったことが残念。

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