無無無庵

(むさんあん) - 思考が無く - 躰が無く - 心が無く
団塊世代のセカンド・ステージ - 退職親父のボケ封じ

自浄伝

一切れのパン

朝は食パンを一切れと決めている。それも、六枚切りだ。
今の住処で暮らしだしてからはもっぱらトーストすることに決めている。
トーストする香りを楽しみながら、何を塗るかを考えるのは数少ない思案のネタの一つだ。
とは言うものの、バターにするかジャムにするかの二つの選択肢しか無いのだから、悩むほどのことではない。
糖尿病持ちとしては何も塗らないという選択肢もあるのだが、それでは余りにも寂しいだろう。
青少年の時代は母の愛がこもった米の御飯を食べていたが、就職して大酒を飲むようになり二日酔が多かったので、朝食は食べないことにしていた。しかし、50歳を過ぎた頃から始めた糖尿病の治療で「糖尿病薬を飲むと血糖が下がることがあり、それを予防する為には朝食を採らなければならない」と申し渡され、渋々はじめたことが続いているということだ。 食べたくて食べているのではないため、最低限の食パン一切れということで落ち着いている。
塗る物としているバターorジャムは、指導入院の際に病院で出されたからであり、効果の程は理解していない。
以前はトーストしていなかったが、北国を終の棲家としてからは暮らしの余裕としてはじめた。早い話が暇つぶし。
本格的に治療に取り組んだ頃は医学の知識も薄っぺらであったが糖尿病というものは他の病気と同じように完治するものだと思っていた。これから仕事を辞めるのだから、その前に治しておこうという甘い考えであった。あの頃は、以前は行かなかった人間ドッグを受けたりと前向きな人生だった。
しかし、糖尿病は治らないということを知り認識したころから俺の老後が順調にスタートしたのだろう。
六枚切りパンを食べた後のアイスコーヒーを味わいながら、長いのか短いのかは見えない未来を思う日々だ。

関連過去記事:ひとりの時間に / 食パンの皮 / 朝食って

親父の思い出

今になれば「敬愛する」とか、「尊敬する」とか、白々しく言えるのだが、子供の頃は「とにかく怖く」、青年になってからは「嫌な存在」でしかなかった親父であった。
男は、たいがいは親父という存在は煙ったいのだろう。

2度の徴兵を受け支那事変インパール作戦に行き、顎には機関銃の弾が貫通したという傷跡があった。

明治の男らしく、家庭で会話をした記憶がない。当時の堀炬燵の中で足が触るだけでびくびくするほどに怖かった。
それでも、新しいメカが好きだったらしく、トランジスターラジオを買っていた。(もっとも、死ぬまで1台だけ)

50歳で定年退職し、秋田から横浜に転居した。 120坪ほどの自宅は、バブル時代には1億円以上の値がついた。

色々と先見の明があったのだろう。

百歳まで生きると言いながら、93歳で旅立った。 あなたには追い付けないな~

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明日は雨水。雪が溶け始める頃という。 当地も久しぶりに晴れとの天気予報。
20160218
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京急に乗っていたっけ

1968年(S43)に就職して東京に行って以来、京浜急行(京急) は通勤の足であった。
当時は 「谷津坂(やつざか)」と称していた駅から乗車したが、 その駅名は谷地を連想する為か(?)半年と経たない内に「能見台(のうけんだい)」 と改称された。就職した頃は、京急で品川に出て、都営地下鉄1号線(浅草線)の泉岳寺駅まで歩いて乗り継ぎ、SW人形町駅まで通勤していた。
SW人形町駅からは都電で新大橋に行くのだ。
しかし2ケ月程で京急と地下鉄浅草線が相互乗り入れを始めた為、乗り換えることなく人形町まで直通となった。
以来は、いたって便利に都心までの直通運転を謳歌できることになり、鎌倉市大船に転居し、JRを利用するようになるまでは京急を利用しての通勤を送ってきた。


昔の京急では酒を飲めた。 京急の路線では勿論の事、相互乗り入れしている地下鉄の中でも煙草も吸えた。
しかし、時代の趨勢の中で、煙草は無論の事、飲酒する者の姿も消えていった。
それが、2000年頃になって、京急に「品川 ⇒ 上大岡 」間をノンストップで走る電車ができた。
当時は、能見台駅から金沢文庫駅に乗降する駅を変更していた俺には、大変好都合な電車であった。

品川駅直近の馴染みの居酒屋で軽く飲んだ後に、缶ビールを車内に持ち込み、車窓を眺めながらの楽しい時間は有意義であった。 居眠りしてしまっても、一駅手前で乗降する物音で目覚めるので乗り越す心配が無い。

日本海側の鈍色の空の下で、通勤とは無縁になった今、太平洋側のすっ飛んだような青空が懐かしい。
 【KEIKYU WEB】京急電鉄オフィシャルサイト

関連過去記事
食パンの皮

避けてきた大腸検査

仕事人時代には、経費は会社の持ちで毎年人間ドックに行っていた。
会社も豪気なもので、脳のMRIを含めてすべての検査項目を受診することができた。
退職して4年間は、持病の定期診察のため2ヶ月に1度は病院に出向くのだが、血液検査以外にはこれといった検査も無かった。 そろそろ人間ドッグでも行ってみようかと思う由縁である。


当時55歳の仕事仲間が人間ドッグにて大腸カメラを受け、肛門近くに大腸ポリープが発見され 小さなポリープはカメラに付いた切除用器具で除去されたが、大きなポリープは除去できないため後日改めて病院で手術により除去することを奨められた。

人間ドッグを終えた後、早速ポリープ除去の手術を受けるべく東京の著名な大病院に入院した彼が予定の退院日になっても出てこないので、見舞いに行った。

面会室にピンシャンと出向いて来た彼が言うには「肛門そばのポリープを除去した後、切除部位の縫合箇所から体液が漏れており縫合が適切に行われていない事が判ったので、明日もう一度縫合を行う」とのことだ。
縫合を行うだけの簡単な手術だから、1週間程度で退院できる予定とのことで、至って明るく、タバコをねだる元気さであった。 結局、翌日の簡単な手術にも失敗し病院で死亡した。
人間ドッグで大腸カメラを行わず、ポリープを抱えている事を知らずに暮らしていれば、もっと長生きできたであろう。

大病院側は過失を認めなかったが、葬儀代金は病院が拠出し、遺族には多額な見舞金が支払われたとのことだ。
闇から闇の白い巨塔というべきだろうか。
10年程前の4千万円以上を高額と取るかは人それぞれだろう。 遺族としては泣き寝入りするよりはマシということだろうが、年金生活もできなかった当人としては残念であっただろう。
そんな経験から、大腸検査はどうも気が進まないでいる。 また、目の手術等は、できるだけご遠慮したい。

市役所からは、毎年のように健康診断の案内が郵送されてくる。 転居以来1度も行かずにいたところ、過日督促が来た。 市役所の行う人間ドッグ程度の内容は、持病持ちとしては通院の都度行われている。
しかし、大腸検査だけはしていないから、カメラではない内容を受けてみようかとも思わなくもない。
最近では血液検査でガンの兆候が診察できる人間ドッグがある。

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転院することにした
高血圧になった日
血糖値が上がった
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『腫瘍マーカー』を学ぶ

カラーフィルムの話

最近では、デジタルカメラの利用者が多く、フィルム式のカメラを利用している人を見掛ける事は少ない。
デジタルカメラでも、カメラの形をした物では無く、スマホや携帯電話の付録を利用する人が多いのだろうか。

昔は、「カメラ」と言えば、もっぱらフィルム式のカメラであった。 カメラの歴史
どういった経緯なのかを聞いたことは無いが、親父は蛇腹式のカールツアイス製カメラを持っていた。
求めたのは古く、当時東京消防庁に勤めていた関係から、日本橋消防署の望楼から白木屋の火災を撮影した。
また、中国やビルマでの戦争に関する写真が、アルバム数十冊に納められていた。
消防車の運転手をしていた為、戦地においても司令部付き運転者をしていた為に、できたことだったのだろう。

終戦となり復員してから務めた秋田県での仕事でもカメラが活躍していたようだ。
仕事ばかりではなく、まだカメラを所持する者が少なかった頃に、知り合いの写真を撮っていた。
そんな親父を見て育った俺は、カメラは憧れの品物という事になってしまった。


カメラは、随分と買い漁ったものだ。 以前、ここ10年ほどの間に使い今も所持しているカメラを記録してみた。
これまで使用したカメラは百台以上だろうが、断捨離が好みの俺は、新しい物を入手すると古い物は処分した。
それでも、現有の物の中でフィルム式カメラが3台も有る。アサヒPENTAX MZ-5 には、フィルムを入れた事が無い。

デジタルカメラが全盛となった今、フィルムが販売されているのかさえも確認した事が無い。
そもそも、今でもカメラ屋でフィルムを現像したり焼き増ししたりしてくれるのかも知らない。


カメラと言えばフィルムが当たり前であった高校時代の部活では、登山同好会と共に写真愛好会に参加していた。
山で写真を撮っても、フィルムの現像や焼き増しをカメラ屋に頼むと代金が高かったので、自前で行う為に写真愛好会に入ったのだ。 暗室を自前で設ける事は無理であり、現像液等を共同使用することで幾分安上がりだった。
とは言うものの、そもそもフィルム自体が高価であった為、シャッターを切るのは余程の場面であった。
今時のように、連写で 「下手な鉄砲も数打ちゃ」 なんてことをしたら、小遣いが無くなってしまうのだ。

当然、用いるフィルムは白黒だ。
フィルムの規格が35mmに統一されつつあった時代で、パトローネ入りの物がコニシロク(サクラフィルム) ・ 富士フィルムからも発売されていたが、コダックフィルムを使えるとなんとなく優越感があった。
既に35mm版のカラーフィルムも発売されていたが、貧乏な高校生がおいそれと買えもものでは無かった。 しかし、量販化が進んだため、山の写真には白黒よりはカラーを用いるようになった。
それでも、フィルム代を安くするために、オリンパスのハーフサイズカメラは重宝した物だった。

今時では、高価なカメラを求めずとも、気軽に綺麗な写真を簡単に撮影できる。
そして、プリントアウトしなくとも、簡単に写真を見ることができる。 さらには、ブログ等で公開することもできる。
でも、顔写真の公開は止そう。 

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高血圧になった日

毎日、大酒を飲みまくっていた頃だった。
二十代・三十代の頃に比べれば、だいぶ酒量が落ちたものの、1晩に日本酒1升は飲んでいた。
ウィスキーならば1本半、焼酎でも1升程度は飲んでいたのだろう。

夜は飲んだくれて、昼は酔いを覚ます生活の繰り返しで、それでも賃金を頂戴できたのだから、気楽な稼業だった。
出張などに出かければ、仕事に行ったのか(?) 酒を飲みに行ったのか、我ながら疑問を覚えていた。
それでも仕事をしているフリさえしていれば良く、日々酒臭い顔をしては家を出ていた。

JR品川の本拠事務所からJR田端の事務所に出かけていた頃があった。
コンピュータのマシン室が在り、全国の中枢ポイントとして各地のコンピュータを統括する為の重要なポイントだった。
中央マシン室と呼べば如何にも恰好良いが、所詮はコンピュータの為の部屋である。
やたらコンピュータが並ぶ室内の片隅に、万一の故障に備えて人間が滞在していた。
平常時には殊更何もすることが無い為、暇つぶしにCAD等で遊んでいればOKという仕事である。
本来はコンピュータの為に作られた部屋であり、室内温度は20℃程度に設定されていた。
二日酔いの俺にとっては、誠に快適な環境と言うべきだろう。
というわけで、酔い覚ましに出向き、常駐者を本拠に戻して俺が代行する事があった。

あれは厄年だったと記憶する。
かなりの二日酔いとなった或る日、いつものようにマシン室に出かけ、涼しさを満喫していた。
その日は躰の火照りが抜けず、特に肩凝りがひどいように思っていた。 その感じは時間とともにひどくなった。
それまでのように昼飯でも食べれば直るだろうと思い、昼食に出かけたのだが、フラフラする感じであった。
それまで経験した事の無い体感に不安を覚え、マシン室とフロア違いの一般事務室の知人に頼んで病院に連れて行ってもらうことにした。 その間にも肩凝り感が増す一方であり、頭が霞む感じでボンヤリとしていた。

地域の総合病院で内科に飛び込み、下された診断は高血圧であった。 上が260程度はあった記憶である。
しばらく降圧の為に点滴を受け、2時間ほど休まされた後、帰宅して安静にするようにとのことであった。
1週間ほど会社を休み、安静に努めた結果、血圧が140程に下がることができた。


あの経験は躰が覚えているようで、未だに "幻の病" なるものの要因になっているようだ。
退職し自宅にいるようになってからは、涼しさ大好きの女将に付き合って夏場はエアコンのお世話になっているのだが、ふと寒さを感じるとあの時の出来事を思い出すことがある。
ノートパソコンに向かう俯き加減の姿勢はよろしくないと考える由縁でもある。

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血糖値が上がった
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「総合診療医」考
どの病院に行けば良い?
漢方医はどこに居る?
-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-
徳之島町ふるさとCM2014【島唄にのせる、恋心】

Tokunoshimatown さんのチャンネル YouTubeより

血糖値が上がった

先日の通院時の血液検査の結果、血糖値が上がっていた。 
血液検査結果の血糖値を心配する際の数値として「ヘモグロビンA1c」がある。
ヘモグロビンA1c」は、日本糖尿病学会(Japan Diabetes Society; JDS)により国内標準化が行われていたが、国際的には米国のNational Glycohemoglobin Standardization Program; NGSP が標準化に採用されており、日本独自のものとなっていた。 しかし、2014年4月1日より、正式に「NGSP値」と呼ぶことになった。
これにより、最近の血液検査結果に 「HbA1c」 と表記されている場合は 「NGSP値」 である。
しかし、血液検査の実施機関によっては 「NGSP値」 と 「JDS値」 の両方が表記されている病院等もあり、HbA1c(JDS)を 「HbA1c」 としている場合は、HbA1c(NGSP)についてのみ 「A1C」 ・ 「A1c」 とする等して判別できるようにされている。なお、HbA1c(JDS) が 5.0% ~ 9.9% の間であれば、0.4% を加えた値がNGSP値である。

2009/09に入院してインスリン注射を始めた。 この頃のHbA1c(JDS)は8.4%であった。
なお、血糖値の記録を始めたのは鎌倉に転居後に思い立ち、2006/03のHbA1c(JDS)は8.8%であった。
以降、血糖値を下げる薬を服用していたが、HbA1c(JDS)は、最高値では9.6%であり、概ね9.0%程度であった。
途中、病院を替えたことで担当医師より「糖尿病治療薬として、インスリンを出させる薬を長期間使用してきた為、すい臓が弱っている」可能性を指摘され、インスリン注射を始めた次第である。
2010/03にはHbA1c(JDS)が6.2%程度を維持できるようになった為、担当医師に交渉して注射を止めた。
以降は薬の服用だけで糖尿病が急激に回復でき、HbA1c(JDS)が6%以下を維持することができた。
しかし、視力に不具合が発生し、糖尿病治療と同時に診察を受けていた眼科医より「急激な血糖値の変動により、目の血管に変動があった為」と告げられた。これを改善する為、2010/08には目のレーザー治療を行った。以降もHbA1c(JDS)6%以下を維持することができたが、目のレーザー治療は2度目を施術。
2011/06には鎌倉を転出したことで、大宮にて単身生活を過ごす事になった。 当然、内科・眼科共に転院。
単身暮らしで貧しい暮らしだった為か(?)、HbA1c(JDS)は5.6%程度をキープしていた。
新しい眼科医では目のレーザー治療の回数が少ないとの事で、2度の施術がなされた。
俺は、加齢黄斑変性糖尿病性網膜症、それに白内障を併せ持つとされ、レーザー光凝固術が正式名称である。


大宮から当地に転居してからも、2年間程のHbA1c(JDS)は6.0%以内で落ち着いていた。
しかし、昨年の秋頃から上昇傾向になっていた。 それでもA1C(NGSP)で7.5%程で推移していた。
ところが、過日はいきなりA1C(NGSP)で8.1%となってしまった。

食事や生活で、以前と変えた事は無いと意識している。 しかし、原因有っての結果なのだろう。
これはイカンと思いながら、さて何をどうしようと考えている日々である。

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