無無無庵

(むさんあん) - 思考が無く - 躰が無く - 心が無く
トキメキ団塊親父のセカンド・ステージ - 退職爺のボケ封じ

自浄伝

熱中症続出の日々

まだ7月だというのに、熱中症が真っ盛りである。(気象庁|平成30年の梅雨入りと梅雨明け(速報値))
マスコミは、大阪の地震や西日本の豪雨被害を話題にしていたが、最近では被害の話題よりも熱中症の話題に傾倒してきたように見受けられる。

上京した頃は毎晩のように飲んだくれていた。山手線の海側で飲む事が多かったが、給料日前の金欠期間は山側の安い店で飲む事になっていた。金欠とはいって見栄を張ってせいぜい新宿で飲むようにしていた。
更に金欠が進めば池袋や渋谷でも飲んだが、余程の貧乏状態以外はそこまで落ちぶれたくは無かった。
新宿で飲んで遅くなり横浜の自宅に帰れない時は、淀橋浄水場(現在の副都心)を歩いて抜け、初台の同窓生のアパートに泊まる事にしていた。夜中に転がり込まれる同窓生にしてみればとんでもない迷惑であっただろう。
当時のアパートの殆どは狭かったが、同窓生のアパートは特に狭く、京間作りの二畳間であった。畳敷き以外に布団を仕舞う為の棚が有ったが、居住スペースは二畳だけである。なんだかんだと言っても、一応は繁華街の新宿に近い場所なのだから、そんなモンだっただろう。今ならばあのアパートを借りる者はいないだろう。
同窓生一人だけでも狭いアパートに酔っ払いの俺が乱入し、1枚だけの布団に雑魚寝するのだから、朝は汗まみれ状態で目覚める。自炊設備の無いアパートには水道すら無く、前夜に汲み貯めしたヤカンの水で水分補給することになる。当然ながらコップは無く、ヤカンの注ぎ口から直に飲むことになる。思えば、随分と間接キッスしたものだ。
途中で同窓生も学習し、コカコーラのホームサイズに水を貯めることを覚えていたっけ。

山手線の北側で飲んだくれると西巣鴨の同窓生を訪ねた。SW西巣鴨駅を地上に出て隣のマンションに住んでいたが、勤め先のサラ金に貸与された物件だった為に、当時ですらクーラー付きの部屋であった。しかし商売柄、夜中に酔っぱらった俺が訪ねると日本刀を抜いて迎えられるのが困りものであった。

山手線の南側ではJR目黒から雅叙園脇を下って環六に出た所に有るアパートが定宿であった。他の所は窓が無かったが、ここだけは窓が開き当時のアパートという作りであった。しかし、環六に面していたため騒音で開けっ放しにはできなかった。(過去記事:目黒の居酒屋ぶらり / 目黒の映画館 / Y.K.氏 のこと / 漫画「寺島町奇譚」購入)

いずれも部屋も暑かったが、部活の最中にぶっ倒れてもヤカンの水を掛けらるだけの頃としては、当然であった。
当時は「日射病」という言葉はあったが、「熱中症」は聞かなかった、室内で高温障害が起こるほど暑くは無かったのか。それとも、有っても医者も含めて知らなかったのだろうか。当時は風通しの良い家屋が多かったしね~

最近では熱中症(熱失神⇒熱痙攣⇒熱疲労⇒熱射病)とやらで毎日のように救急車が走っている。中には死に至る人もいる。団塊世代と呼ばれる人達の中には「根性が足りない」とか「エアコンなんて、贅沢品」と言う者もいるようだ。そして、そのような者に限ってエアコンも使わず、熱中症対策にも耳を貸さずも実行もしていないようだ。
しかし、根性論で病気にならないということがあるハズが無いだろう。確かに気力で直る病気も有るようだが、神信心と同様にそれは最後の手段であろう。エアコンが無ければ、取り合えず経口補水液程度は飲むようにしよう。
「経口補水液」コンビニに置いていない理由 実は家で簡単に作れる? - withnews
とは言うものの、食塩とブドウ糖を混合した経口補水液を糖尿病患者が愛飲しても良いものか(?)疑問也。

異常気象と言われる最近は昔とは気候が変わってきているように思っていたが、天気データにも表れているそうだ。
「昔はエアコンがなくても大丈夫だったのは今より気温が低かったから」は本当か 日本気象協会に聞いた - ねとらぼ
一昔前の根性論では暮らせない気候になっているということだ。

今の日本でエアコンは必需品であるが、各家庭で冷却運転すると排気熱で周囲環境の温度が上がるという悪循環に陥るらしい。さりとて、東京ドームのように一定エリアを囲うのも現実的ではない。野々市市や近隣の住みたい街の小中学校は100%のエアコン設置率との事だが、古い行政ではゼロも有る。
我が家のように暇な爺婆はテレビのワイドショーからでも熱中症の知識を得られるが、学校の先生などはワイドショーを見ている時間は無い。彼らを教宣する方法を考えたい。体育を中止する判断力を含めて訓練したい。
未来はどうするのだろうか 取り敢えずは、2年後に迫った東京オリンピックか。自宅でエアコン観戦が一番だな。
関連過去記事:東京オリンピックは炎暑 / 2018梅雨
命に関わる「熱射病」…熱中症・日射病・熱射病の違い - All About NEWS

おはぎを買って

今日は春分の日。 春の彼岸という事で、「おはぎ」を供えた。当地への転居前ならば、鎌倉霊園参り也。
我が家では、春の「ぼたもち(牡丹餅)」にしろ、秋の「おはぎ(御萩)」にしろ、供え物は自宅で作っていた。
ちなみに、東京市荏原町で世帯を持っていた父母は、東京者に倣い春秋ともに「おはぎ」と呼んでいた。
俺が子供の頃、母がまだ若かった時分には、餅米を半殺しにした物や、こし餡・つぶし餡・きな粉などと多彩であった。親父が砂糖を好まなかった為、塩餡や胡麻まで加えなければならず、母は暗いうちから大変だった。
しかし親子3人の我が家で、そんなに作ったところで近所に配ることになるため、いつの頃からか種類を決めて作るようになった。とは言うものの、今のように「煮た小豆の缶詰」という便利な物が無い時代の事、作ってしまうと翌日まで掛かって平らげなければならなかった。

それでも当時から糖尿病になる素養があったのか(?)、酒飲みで甘党の俺としては「おはぎ」を喜んで食べた。
ということで世帯を持って以来、女将は「おはぎ」作りが忙しかったようだ。しかし、食べる量が少なかったとはいうものの父母の食べ口が減ってしまってからは、「おはぎ」作りを止めて市販品を求めることにした。
更に、俺が糖尿病治療に励むようになってからは、「おはぎ」とは縁遠い食べ物になった。
「おはぎ」を供えながら想い出す昔話。

03/18には桜が咲いたとの事だったが、今日の箱根山では雪が降っているそうだ。
桑田佳祐 – ライブ映像作品『がらくたライブ』トレーラー

桑田佳祐 YouTubeより

出身地に見る帰巣本能

 一昨日前からの降雪は断続的に続いている。予報では明日の午前中まで続くそうだ。雪は飽きた
今日は2月13日。退職予定者も就職予定者も、それぞれ準備を始めているのだろうか。

秋田県出身の俺が、終の棲家として石川県を選ぶというのも珍しいだろうと思う。
秋田県の中でも、生まれ在所の鹿角郡(現・鹿角市)は奥羽山脈の分水嶺へと続く寒い地域である。小学校低学年の頃に親父の転勤に伴って転居した秋田市は日本海からの西風が寒く、鹿角市ほどではないものの冬季は朝の除雪から一日がはじまった。小学校から高校まで、出社前には大通りへ続く私道の雪掻きをしていた親父の姿が冬の景色の一コマであった。そんな寒さに嫌気が差したのであろう親父は、退職が見えた時点で暖かい地域へ転居した。

そのおかげで俺は、極稀には雪が降り、些少の雪に大騒ぎするような横浜市に住み、秋田での寒さや雪なんちゅう物とは縁遠い生活を堪能して人生の大部分を暮らす事ができた。退職間際に移り住んだ鎌倉も、寒さの話題は出ない土地だった。
そのような暮らしができることは、出征前は東京で暮らし南方で終戦を向かえた親父の、「雪の降る寒い所で暮らしたくない」という暖かい土地への憧れがあったからだったのだろう。

♪あぁ、それなのに...バカな倅はまた、豪雪地帯と認定される石川県で死ぬ道を選んでしまった。
どこで死んでも同じだろうと考えた上での土地選びであったが、いざ暮らしていると年寄りとしては寒さが堪える。
しかし、太平洋側の「地震が来るよ」と脅かされる地域よりは安心して暮らせると言うべきか。とは思うものの、老後や死後を心配するくらいならば、いっそのこと予想しない巨大自然災害で死ぬというのも悪くは無かったな~と思ったりもする。それでも、天下の首都圏で老後を暮らすよりは、Jターンした事を是と考えている。(Uターン / Iターン)
なごり雪 - イルカ (伊勢正三が作詞・作曲したかぐや姫の楽曲)



俺の知る団塊世代の人達では、東北出身者の就職先は「東北第一の都会である仙台」が多かった。東京圏に就職した者は少なく、居ても早い時点で東北圏にUターンしている。少なくとも退職すればUターンしている。
一方、鹿児島出身者の就職先は東京圏が多かった。(何故か俺は、関西以南の人、特に鹿児島県人は大好きだ) 鹿児島以外の九州圏出身者の就職先は「九州第一の都会である福岡」が多かったと聞くが、福岡を素通りして大阪圏を選ぶ者も多かったと聞く。しかし、福岡や大阪圏への就職者の状況は知らない。俺の知る東京圏就職組の鹿児島出身者の場合、東京圏で作った家を終の棲家としUターンしない者が多い。勿論、東北出身者と同様に早い時点で九州圏にUターンした者もいるが、圧倒的に戻らないと決めた者の方が多い。
昔の地方出身者は「東京に行かなければ有名になれない」として上京し、有名に成れず故郷に錦を飾れなかった者が多かったようだ。また、有名に成っても故郷へは戻らなかった者も多かった。
東北出身者と九州出身者を比べても、帰巣本能に差異があるのかは解らない。
しかし、故郷を出るにあたっての覚悟として、「帰り易さ」のポイントは高いのではないだろうか。

今では新幹線で日帰りできる故郷が多い。しかし、俺が秋田から就職上京する頃は汽車ポッポで1日掛かりだった。あの距離と時間は「故郷を捨てる」と身に染みて考えるには十二分であった。過去記事:東京に行く事
一方、九州出身者は当時最先端の寝台車を利用したと聞く。「目が覚めれば到着」していた距離感は「身近な故郷」感覚が残るのではないだろうか。古くより、沖縄からの就職者には飛行機を利用させたそうだ。これは、長時間掛けて海を渡った遠い故郷という感覚を拭うことで、ホームシックにならないように取り計らった事と聞く。

政府の中央官庁勤務者は、出身地によって勤め先が決まる的なことが未だにあると聞く。また、聊か古い話題だが、警視庁には鹿児島出身者が多く、銭湯を営むのは新潟出身者が多いそうだ。
先輩の伝手を頼りに故郷を離れ、先輩の指導を受けながら人生を歩み、そして上京地で花を咲かせ散る...

今東京で先祖代々の江戸っ子を気取っている人達は、徳川の城江戸の町を作る際に茨城あたりから連れてこられた作業員と女郎との間に生まれた子供の子孫だろうか。その子孫が「徳川様の世」から代る時に進軍して来た薩長の田舎侍と懇ろになって東京ができたかと考えれば、東京の有難味も薄れるというものだ。WikiPedia:江戸言葉
もっとも、古代より日本全国で男性の移動は盛んだったというから、地域の固定種は女性だけかも知れない。

今年(2018年)の3月31日に退職する人達は、1952年(S27)生まれの人達(182.9万人)で、いわゆる「ポスト団塊の世代」とか「しらけ世代」と呼ばれる年代だ。団塊世代新人類との繋ぎとなり、バブル景気が起こる前に成人した。
1950年代前半に生まれた世代は高度経済成長時代初期に小学校入学、大学進学率は20%ないし30%であり、「金の卵」として中卒や高卒で集団就職した者が多かったとのことだが、退職後の彼等は故郷に帰るのだろうか。
1952年12月31日に日本劇場第4回NHK紅白歌合戦をテレビ・ラジオ同時生中継。この回から紅白は毎年大晦日に開催となった。日劇は惜しまれて過日(02/04)営業終了した。紅白音楽試合は執拗に続くらしい。
マンガで読む NHKヒストリー | 特集記事から探す | NHKアーカイブス
俺も長生きした場合に備えて、少し若い年代の気の合いそうな地域のネット友を探す事にしよう。

ふるさとのはなしをしよう
 歌詞
歌:北原謙二     作詞:伊野上 のぼる     作曲:キダ・タロー


関連過去記事:野々市の人になって1年が経つ / 44年が過ぎる / 東京圏の年寄は脱出を

三十路の俺は

最近の結婚年齢は遅いらしい。 大都会では30歳を過ぎた女性でも慌てる事は無いようだ。
と言うよりも、結婚するという気持ちが無いとも聞く。しかし、皆無ということではなく、理想の相手に当たらないということらしい。理想を云々と言えるほど選べる立場なのかは知らないが、結婚するならば早いうちが良かろう。
孫のような年代の子供を可愛がる親というのが、美しい景色には見えない。

俺の親父は二度徴兵された。そして太平洋戦争後に俺が生まれたのは、母親が39歳。父親が43歳の時だ。
概ねは、現代の都会の夫婦の初めての出産年齢であろう。
今にして考えれば、39歳の女性ならば「アラサー」とか言いながら街をぶらつくのだろうか。
以降、高卒で就職した年に親は既に60歳を過ぎていた。俺が働き盛りとなった30歳代には古稀を過ぎていた。
今の俺よりも高齢に達していたということを改めて感じるものの、当時の俺としては「親は親」とい感覚であった。
「仕事が忙しい」という大義名分を振り立てて、親の事を考えることも無く、未来を語り合うことも無かった。

因果応報とも言う。そんなものなのだろう...と思う昨今である。

SpaceXのファルコンヘビーがどのように飛んだのかを公式CGアニメで見てみよう | ギズモード・ジャパン

SpaceX YouTubeより

一切れのパン

朝は食パンを一切れと決めている。それも、六枚切りだ。
今の住処で暮らしだしてからはもっぱらトーストすることに決めている。
トーストする香りを楽しみながら、何を塗るかを考えるのは数少ない思案のネタの一つだ。
とは言うものの、バターにするかジャムにするかの二つの選択肢しか無いのだから、悩むほどのことではない。
糖尿病持ちとしては何も塗らないという選択肢もあるのだが、それでは余りにも寂しいだろう。
青少年の時代は母の愛がこもった米の御飯を食べていたが、就職して大酒を飲むようになり二日酔が多かったので、朝食は食べないことにしていた。しかし、50歳を過ぎた頃から始めた糖尿病の治療で「糖尿病薬を飲むと血糖が下がることがあり、それを予防する為には朝食を採らなければならない」と申し渡され、渋々はじめたことが続いているということだ。 食べたくて食べているのではないため、最低限の食パン一切れということで落ち着いている。
塗る物としているバターorジャムは、指導入院の際に病院で出されたからであり、効果の程は理解していない。
以前はトーストしていなかったが、北国を終の棲家としてからは暮らしの余裕としてはじめた。早い話が暇つぶし。
本格的に治療に取り組んだ頃は医学の知識も薄っぺらであったが糖尿病というものは他の病気と同じように完治するものだと思っていた。これから仕事を辞めるのだから、その前に治しておこうという甘い考えであった。あの頃は、以前は行かなかった人間ドッグを受けたりと前向きな人生だった。
しかし、糖尿病は治らないということを知り認識したころから俺の老後が順調にスタートしたのだろう。
六枚切りパンを食べた後のアイスコーヒーを味わいながら、長いのか短いのかは見えない未来を思う日々だ。

関連過去記事:ひとりの時間に / 食パンの皮 / 朝食って

親父の思い出

今になれば「敬愛する」とか、「尊敬する」とか、白々しく言えるのだが、子供の頃は「とにかく怖く」、青年になってからは「嫌な存在」でしかなかった親父であった。
男は、たいがいは親父という存在は煙ったいのだろう。

2度の徴兵を受け支那事変インパール作戦に行き、顎には機関銃の弾が貫通したという傷跡があった。

明治の男らしく、家庭で会話をした記憶がない。当時の堀炬燵の中で足が触るだけでびくびくするほどに怖かった。
それでも、新しいメカが好きだったらしく、トランジスターラジオを買っていた。(もっとも、死ぬまで1台だけ)

50歳で定年退職し、秋田から横浜に転居した。 120坪ほどの自宅は、バブル時代には1億円以上の値がついた。

色々と先見の明があったのだろう。

百歳まで生きると言いながら、93歳で旅立った。 あなたには追い付けないな~

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
明日は雨水。雪が溶け始める頃という。 当地も久しぶりに晴れとの天気予報。
20160218
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京急に乗っていたっけ

1968年(S43)に就職して東京に行って以来、京浜急行(京急) は通勤の足であった。
当時は 「谷津坂(やつざか)」と称していた駅から乗車したが、 その駅名は谷地を連想する為か(?)半年と経たない内に「能見台(のうけんだい)」 と改称された。就職した頃は、京急で品川に出て、都営地下鉄1号線(浅草線)の泉岳寺駅まで歩いて乗り継ぎ、SW人形町駅まで通勤していた。
SW人形町駅からは都電で新大橋に行くのだ。
しかし2ケ月程で京急と地下鉄浅草線が相互乗り入れを始めた為、乗り換えることなく人形町まで直通となった。
以来は、いたって便利に都心までの直通運転を謳歌できることになり、鎌倉市大船に転居し、JRを利用するようになるまでは京急を利用しての通勤を送ってきた。


昔の京急では酒を飲めた。 京急の路線では勿論の事、相互乗り入れしている地下鉄の中でも煙草も吸えた。
しかし、時代の趨勢の中で、煙草は無論の事、飲酒する者の姿も消えていった。
それが、2000年頃になって、京急に「品川 ⇒ 上大岡 」間をノンストップで走る電車ができた。
当時は、能見台駅から金沢文庫駅に乗降する駅を変更していた俺には、大変好都合な電車であった。

品川駅直近の馴染みの居酒屋で軽く飲んだ後に、缶ビールを車内に持ち込み、車窓を眺めながらの楽しい時間は有意義であった。 居眠りしてしまっても、一駅手前で乗降する物音で目覚めるので乗り越す心配が無い。

日本海側の鈍色の空の下で、通勤とは無縁になった今、太平洋側のすっ飛んだような青空が懐かしい。
 【KEIKYU WEB】京急電鉄オフィシャルサイト

関連過去記事
食パンの皮

避けてきた大腸検査

仕事人時代には、経費は会社の持ちで毎年人間ドックに行っていた。
会社も豪気なもので、脳のMRIを含めてすべての検査項目を受診することができた。
退職して4年間は、持病の定期診察のため2ヶ月に1度は病院に出向くのだが、血液検査以外にはこれといった検査も無かった。 そろそろ人間ドッグでも行ってみようかと思う由縁である。


当時55歳の仕事仲間が人間ドッグにて大腸カメラを受け、肛門近くに大腸ポリープが発見され 小さなポリープはカメラに付いた切除用器具で除去されたが、大きなポリープは除去できないため後日改めて病院で手術により除去することを奨められた。

人間ドッグを終えた後、早速ポリープ除去の手術を受けるべく東京の著名な大病院に入院した彼が予定の退院日になっても出てこないので、見舞いに行った。

面会室にピンシャンと出向いて来た彼が言うには「肛門そばのポリープを除去した後、切除部位の縫合箇所から体液が漏れており縫合が適切に行われていない事が判ったので、明日もう一度縫合を行う」とのことだ。
縫合を行うだけの簡単な手術だから、1週間程度で退院できる予定とのことで、至って明るく、タバコをねだる元気さであった。 結局、翌日の簡単な手術にも失敗し病院で死亡した。
人間ドッグで大腸カメラを行わず、ポリープを抱えている事を知らずに暮らしていれば、もっと長生きできたであろう。

大病院側は過失を認めなかったが、葬儀代金は病院が拠出し、遺族には多額な見舞金が支払われたとのことだ。
闇から闇の白い巨塔というべきだろうか。
10年程前の4千万円以上を高額と取るかは人それぞれだろう。 遺族としては泣き寝入りするよりはマシということだろうが、年金生活もできなかった当人としては残念であっただろう。
そんな経験から、大腸検査はどうも気が進まないでいる。 また、目の手術等は、できるだけご遠慮したい。

市役所からは、毎年のように健康診断の案内が郵送されてくる。 転居以来1度も行かずにいたところ、過日督促が来た。 市役所の行う人間ドッグ程度の内容は、持病持ちとしては通院の都度行われている。
しかし、大腸検査だけはしていないから、カメラではない内容を受けてみようかとも思わなくもない。
最近では血液検査でガンの兆候が診察できる人間ドッグがある。

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転院することにした
高血圧になった日
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『腫瘍マーカー』を学ぶ

カラーフィルムの話

最近では、デジタルカメラの利用者が多く、フィルム式のカメラを利用している人を見掛ける事は少ない。
デジタルカメラでも、カメラの形をした物では無く、スマホや携帯電話の付録を利用する人が多いのだろうか。

昔は、「カメラ」と言えば、もっぱらフィルム式のカメラであった。 カメラの歴史
どういった経緯なのかを聞いたことは無いが、親父は蛇腹式のカールツアイス製カメラを持っていた。
求めたのは古く、当時東京消防庁に勤めていた関係から、日本橋消防署の望楼から白木屋の火災を撮影した。
また、中国やビルマでの戦争に関する写真が、アルバム数十冊に納められていた。
消防車の運転手をしていた為、戦地においても司令部付き運転者をしていた為に、できたことだったのだろう。

終戦となり復員してから務めた秋田県での仕事でもカメラが活躍していたようだ。
仕事ばかりではなく、まだカメラを所持する者が少なかった頃に、知り合いの写真を撮っていた。
そんな親父を見て育った俺は、カメラは憧れの品物という事になってしまった。


カメラは、随分と買い漁ったものだ。 以前、ここ10年ほどの間に使い今も所持しているカメラを記録してみた。
これまで使用したカメラは百台以上だろうが、断捨離が好みの俺は、新しい物を入手すると古い物は処分した。
それでも、現有の物の中でフィルム式カメラが3台も有る。アサヒPENTAX MZ-5 には、フィルムを入れた事が無い。

デジタルカメラが全盛となった今、フィルムが販売されているのかさえも確認した事が無い。
そもそも、今でもカメラ屋でフィルムを現像したり焼き増ししたりしてくれるのかも知らない。


カメラと言えばフィルムが当たり前であった高校時代の部活では、登山同好会と共に写真愛好会に参加していた。
山で写真を撮っても、フィルムの現像や焼き増しをカメラ屋に頼むと代金が高かったので、自前で行う為に写真愛好会に入ったのだ。 暗室を自前で設ける事は無理であり、現像液等を共同使用することで幾分安上がりだった。
とは言うものの、そもそもフィルム自体が高価であった為、シャッターを切るのは余程の場面であった。
今時のように、連写で 「下手な鉄砲も数打ちゃ」 なんてことをしたら、小遣いが無くなってしまうのだ。

当然、用いるフィルムは白黒だ。
フィルムの規格が35mmに統一されつつあった時代で、パトローネ入りの物がコニシロク(サクラフィルム) ・ 富士フィルムからも発売されていたが、コダックフィルムを使えるとなんとなく優越感があった。
既に35mm版のカラーフィルムも発売されていたが、貧乏な高校生がおいそれと買えもものでは無かった。 しかし、量販化が進んだため、山の写真には白黒よりはカラーを用いるようになった。
それでも、フィルム代を安くするために、オリンパスのハーフサイズカメラは重宝した物だった。

今時では、高価なカメラを求めずとも、気軽に綺麗な写真を簡単に撮影できる。
そして、プリントアウトしなくとも、簡単に写真を見ることができる。 さらには、ブログ等で公開することもできる。
でも、顔写真の公開は止そう。 

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写真の保存方法(?)
「写真が趣味」なんて
写真の整理でも
デジカメ
思い出写真を撮ろう

高血圧になった日

毎日、大酒を飲みまくっていた頃だった。
二十代・三十代の頃に比べれば、だいぶ酒量が落ちたものの、1晩に日本酒1升は飲んでいた。
ウィスキーならば1本半、焼酎でも1升程度は飲んでいたのだろう。

夜は飲んだくれて、昼は酔いを覚ます生活の繰り返しで、それでも賃金を頂戴できたのだから、気楽な稼業だった。
出張などに出かければ、仕事に行ったのか(?) 酒を飲みに行ったのか、我ながら疑問を覚えていた。
それでも仕事をしているフリさえしていれば良く、日々酒臭い顔をしては家を出ていた。

JR品川の本拠事務所からJR田端の事務所に出かけていた頃があった。
コンピュータのマシン室が在り、全国の中枢ポイントとして各地のコンピュータを統括する為の重要なポイントだった。
中央マシン室と呼べば如何にも恰好良いが、所詮はコンピュータの為の部屋である。
やたらコンピュータが並ぶ室内の片隅に、万一の故障に備えて人間が滞在していた。
平常時には殊更何もすることが無い為、暇つぶしにCAD等で遊んでいればOKという仕事である。
本来はコンピュータの為に作られた部屋であり、室内温度は20℃程度に設定されていた。
二日酔いの俺にとっては、誠に快適な環境と言うべきだろう。
というわけで、酔い覚ましに出向き、常駐者を本拠に戻して俺が代行する事があった。

あれは厄年だったと記憶する。
かなりの二日酔いとなった或る日、いつものようにマシン室に出かけ、涼しさを満喫していた。
その日は躰の火照りが抜けず、特に肩凝りがひどいように思っていた。 その感じは時間とともにひどくなった。
それまでのように昼飯でも食べれば直るだろうと思い、昼食に出かけたのだが、フラフラする感じであった。
それまで経験した事の無い体感に不安を覚え、マシン室とフロア違いの一般事務室の知人に頼んで病院に連れて行ってもらうことにした。 その間にも肩凝り感が増す一方であり、頭が霞む感じでボンヤリとしていた。

地域の総合病院で内科に飛び込み、下された診断は高血圧であった。 上が260程度はあった記憶である。
しばらく降圧の為に点滴を受け、2時間ほど休まされた後、帰宅して安静にするようにとのことであった。
1週間ほど会社を休み、安静に努めた結果、血圧が140程に下がることができた。


あの経験は躰が覚えているようで、未だに "幻の病" なるものの要因になっているようだ。
退職し自宅にいるようになってからは、涼しさ大好きの女将に付き合って夏場はエアコンのお世話になっているのだが、ふと寒さを感じるとあの時の出来事を思い出すことがある。
ノートパソコンに向かう俯き加減の姿勢はよろしくないと考える由縁でもある。

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