無無無庵

(むさんあん) - 思考が無く - 躰が無く - 心が無く
トキメキ団塊親父のセカンド・ステージ - 退職爺のボケ封じ

自浄伝

高血圧になった日

毎日、大酒を飲みまくっていた頃だった。
二十代・三十代の頃に比べれば、だいぶ酒量が落ちたものの、1晩に日本酒1升は飲んでいた。
ウィスキーならば1本半、焼酎でも1升程度は飲んでいたのだろう。

夜は飲んだくれて、昼は酔いを覚ます生活の繰り返しで、それでも賃金を頂戴できたのだから、気楽な稼業だった。
出張などに出かければ、仕事に行ったのか(?) 酒を飲みに行ったのか、我ながら疑問を覚えていた。
それでも仕事をしているフリさえしていれば良く、日々酒臭い顔をしては家を出ていた。

JR品川の本拠事務所からJR田端の事務所に出かけていた頃があった。
コンピュータのマシン室が在り、全国の中枢ポイントとして各地のコンピュータを統括する為の重要なポイントだった。
中央マシン室と呼べば如何にも恰好良いが、所詮はコンピュータの為の部屋である。
やたらコンピュータが並ぶ室内の片隅に、万一の故障に備えて人間が滞在していた。
平常時には殊更何もすることが無い為、暇つぶしにCAD等で遊んでいればOKという仕事である。
本来はコンピュータの為に作られた部屋であり、室内温度は20℃程度に設定されていた。
二日酔いの俺にとっては、誠に快適な環境と言うべきだろう。
というわけで、酔い覚ましに出向き、常駐者を本拠に戻して俺が代行する事があった。

あれは厄年だったと記憶する。
かなりの二日酔いとなった或る日、いつものようにマシン室に出かけ、涼しさを満喫していた。
その日は躰の火照りが抜けず、特に肩凝りがひどいように思っていた。 その感じは時間とともにひどくなった。
それまでのように昼飯でも食べれば直るだろうと思い、昼食に出かけたのだが、フラフラする感じであった。
それまで経験した事の無い体感に不安を覚え、マシン室とフロア違いの一般事務室の知人に頼んで病院に連れて行ってもらうことにした。 その間にも肩凝り感が増す一方であり、頭が霞む感じでボンヤリとしていた。

地域の総合病院で内科に飛び込み、下された診断は高血圧であった。 上が260程度はあった記憶である。
しばらく降圧の為に点滴を受け、2時間ほど休まされた後、帰宅して安静にするようにとのことであった。
1週間ほど会社を休み、安静に努めた結果、血圧が140程に下がることができた。


あの経験は躰が覚えているようで、未だに "幻の病" なるものの要因になっているようだ。
退職し自宅にいるようになってからは、涼しさ大好きの女将に付き合って夏場はエアコンのお世話になっているのだが、ふと寒さを感じるとあの時の出来事を思い出すことがある。
ノートパソコンに向かう俯き加減の姿勢はよろしくないと考える由縁でもある。

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徳之島町ふるさとCM2014【島唄にのせる、恋心】

Tokunoshimatown さんのチャンネル YouTubeより

血糖値が上がった

先日の通院時の血液検査の結果、血糖値が上がっていた。 
血液検査結果の血糖値を心配する際の数値として「ヘモグロビンA1c」がある。
ヘモグロビンA1c」は、日本糖尿病学会(Japan Diabetes Society; JDS)により国内標準化が行われていたが、国際的には米国のNational Glycohemoglobin Standardization Program; NGSP が標準化に採用されており、日本独自のものとなっていた。 しかし、2014年4月1日より、正式に「NGSP値」と呼ぶことになった。
これにより、最近の血液検査結果に 「HbA1c」 と表記されている場合は 「NGSP値」 である。
しかし、血液検査の実施機関によっては 「NGSP値」 と 「JDS値」 の両方が表記されている病院等もあり、HbA1c(JDS)を 「HbA1c」 としている場合は、HbA1c(NGSP)についてのみ 「A1C」 ・ 「A1c」 とする等して判別できるようにされている。なお、HbA1c(JDS) が 5.0% ~ 9.9% の間であれば、0.4% を加えた値がNGSP値である。

2009/09に入院してインスリン注射を始めた。 この頃のHbA1c(JDS)は8.4%であった。
なお、血糖値の記録を始めたのは鎌倉に転居後に思い立ち、2006/03のHbA1c(JDS)は8.8%であった。
以降、血糖値を下げる薬を服用していたが、HbA1c(JDS)は、最高値では9.6%であり、概ね9.0%程度であった。
途中、病院を替えたことで担当医師より「糖尿病治療薬として、インスリンを出させる薬を長期間使用してきた為、すい臓が弱っている」可能性を指摘され、インスリン注射を始めた次第である。
2010/03にはHbA1c(JDS)が6.2%程度を維持できるようになった為、担当医師に交渉して注射を止めた。
以降は薬の服用だけで糖尿病が急激に回復でき、HbA1c(JDS)が6%以下を維持することができた。
しかし、視力に不具合が発生し、糖尿病治療と同時に診察を受けていた眼科医より「急激な血糖値の変動により、目の血管に変動があった為」と告げられた。これを改善する為、2010/08には目のレーザー治療を行った。以降もHbA1c(JDS)6%以下を維持することができたが、目のレーザー治療は2度目を施術。
2011/06には鎌倉を転出したことで、大宮にて単身生活を過ごす事になった。 当然、内科・眼科共に転院。
単身暮らしで貧しい暮らしだった為か(?)、HbA1c(JDS)は5.6%程度をキープしていた。
新しい眼科医では目のレーザー治療の回数が少ないとの事で、2度の施術がなされた。
俺は、加齢黄斑変性糖尿病性網膜症、それに白内障を併せ持つとされ、レーザー光凝固術が正式名称である。


大宮から当地に転居してからも、2年間程のHbA1c(JDS)は6.0%以内で落ち着いていた。
しかし、昨年の秋頃から上昇傾向になっていた。 それでもA1C(NGSP)で7.5%程で推移していた。
ところが、過日はいきなりA1C(NGSP)で8.1%となってしまった。

食事や生活で、以前と変えた事は無いと意識している。 しかし、原因有っての結果なのだろう。
これはイカンと思いながら、さて何をどうしようと考えている日々である。

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さぼっている心臓検査

昨日から大暑になり、一番暑い時期になった。次の二十四節句は08/08の立秋暑中見舞いを出すなら、今の内。 
今年の残りは160日。早いものだ。 思い起こせば三年前の大暑の時期に心臓でドキドキした事があったっけ。
マスコミが最近報ずる二十四節句は当日いっぱいを呼ぶが、天文学的に言えば当日の或る瞬間である。 古くからの用法は、期間を表すと考えられる。(ex.【大暑】⇒大暑から立秋までの期間) なお、雑節は当日を表す。


心臓の不調を感じて2012/07/23に病院に行き、各種検査とともにCT検査(コンピュータ断層撮影) を受けたが、「マルチスライスCT検査だけでは詳細が分からない」 との事で、「カテーテルによる造影CT検査を行わなければ原因不明」 として、即入院の手続きをを強く奨められた。 ※MRI (核磁気共鳴画像法)
心臓の血管に石灰が溜まっている為、X線が検査部位に届かないので、造影剤を注入した上でCT検査する為に直近迄カテーテルを入れるのだと言う。 医者は、「1晩の入院で済む、簡単な検査である」 事を力説する。
しかし、怖さ半分と、必要性に疑問を感じた事や、検査を行いたいという医師が若く、売名行為が有るのではという疑念を抱いた為、即入院は見送り、考えた上で後日決めることとした。 結果、2012/07/26に行わない事にした。

その後もなんとなく違和感があり、キャリアアップをしたいらしい若造医師ではなく経験豊富な年寄り医師の診察日を狙い2013/03/27に通院した。 半年前と同様の検査が行われた結果、「まあ、カテーテル検査を行って原因をはっきりさせた方が良いかも」 という診察であった。 要するに、本人である俺の決めたとおりにしようという事であった。
65歳を過ぎた2013/10に、あまり年寄りになってからの手術よりは...と思い、カテーテル検査を受ける事として、入院手続きを行う為の書類を持ち帰った。 しかし、同意書の内容を読むと、医師から口頭説明が無かった事が記載されているのに気が付いた。 検査する為の手術で、他の症状が発生するかも知れないということだ。
心臓の検査を受けたが為に脳梗塞を併発したのでは堪らんと考え、見送ることにした。


結局、心臓の不調を覚えて病院に行って以来、丸三年が経った。
医師に言わせればラッキーが続いているだけという状態なのかも知れない。 運良く発作が起きていないだけかも。

俺としては、あの時は退職した年だった為、色々と積み重なっていたストレスが影響していたと考えている。
循環器科の若造医師と糖尿病の担当医師が同年輩であり、糖尿病の医師からも心臓検査を執拗に奨められた。
当時は感じていた心臓の不具合(不整脈?) も、最終的に見送る事を決めて以来は皆無に近く発生していない。
体が覚えた病気として、ほんの少しの予兆を感じただけで、今にも死ぬのではないのか(?) という感覚にまで自ら増幅させて怯えていたのではないのか(?) と考える最近だ。 これは、臆病者の独りよがりかも知れないが..

循環器科の若造医師も、糖尿病の担当医師も、別の病院に勤務し、今では通院している病院にはいなくなった。
新しい糖尿病の担当医師は、「セカンド・オピニオンに掛かりたければどうぞ」 という姿勢だ。 ※医者の紹介状
救急車に翼を付けて」で書いたが、俺に自宅で心臓の発作が起きれば生存率は低いだろうと考えている。
だからこそ、心臓検査を行って適切な予防治療を受けようとも考えるが、検査により脳梗塞を起こして女将に苦労を掛ける事は忍びない。 どんな死に方であろうと、逝くなら一発がよい。
できればボケない70歳を迎えたいが、既に十分に生きたか(?) と思えば、ポックリ死の要因を抱えているのも良かろう....と思いながら、心臓のカテーテル検査をさぼっている。 医者だって、死亡診断書の病名を書き易い。
今日も元気だ、タバコがうまい
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退職して3年経過

2012/03/31に62歳と数か月を以て退職し、丸3年が過ぎ4年目に突入した。
法律では、60歳から国民年金の受給資格を持つが、満額の受給を得られるのは65歳からだ。
俺の年代では "国民年金の保険金を24年間納めた者に対する特例措置" が有り、これを適用すれば62歳の誕生日を以て満額受給資格を得たのだが、念のため当該年度末までは在職して保険金を納めることにした。
2011/07/01を以て鎌倉市から現住所に転居したが、野々市市には女将を置いて、俺だけ埼玉県のJR大宮駅近くで単身生活を過ごした。 しかし、単身生活に飽きた為、年度末を待つのが面倒になった。
野々市と大宮を往復する事が多く 既に有給休暇を使い切っていたが、会社に大ホラを述べて無給休暇をせしめて2012/03/15には野々市に引っ込んでしまった。
65歳の誕生日を以て自動車の運転免許証は自主返納しており、それでなくとも出無精な我々夫婦は、特定のポイント以外に出かけることは少ない。 その為、3年過ごしたとは言え、石川県内の土地勘は極めて薄い。


退職にあたり、会社には誓約書を取られた。 もっとも、退職者全員だが。
在職中に行った悪事が発覚した場合は遡及することと、企業秘密を暴露しない、ということが骨子である。
誓約書の有効期間は、一般的には3年間とされている。 その3年が過ぎ去った。

遡及される悪事を行った記憶は無く、俺が知っている程度の企業秘密は周知の内容になっているだろうと思いながら向かえるエイプリルフールである。

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退職記念日(2014/03/31)
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44年が過ぎる(2012/03/31)
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綿抜(わたぬき)、更衣(衣替え
かつては、冬の間に防寒として着物に詰めた綿を旧暦4月1日に抜いていた。 今年はグレゴリオ暦で5月18日
ここから、 「四月一日(四月朔日)」と書いて「わたぬき」と読む姓も存在する。
また、「早生まれ」の〆日
WikiPedia:早生まれより引用
日本において、誕生日が1月1日から4月1日までの間にある場合、俗に「早生まれ」と呼ばれる。
これは、日本における学齢期が、法律で満6歳の誕生日以後(注:基準日を含む)における最初の学年の初め(最初の4月1日)から始まるため、誕生日がその間にある者は、小学校等の就学が前年の4月2日以降に生まれた者と同じとなり、同年生まれの者の中では就学が1年早いことに由来する。
ふるさと

仰げば尊し

カメラ利用歴

【自論】
写真とは、その写真を撮影する時と場所に自分が居て、撮影できる活力が有ったことの証明書である。
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パソコン利用歴を書き終えたので、カメラ利用歴も防備録しておこうかと思い立つ。

しかし、WikiPedia:カメラメーカーを見ながら思い出すと、書ききれないほどの機種を使ってきたことが判った。
ということで、頭出しだけしておこう。
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デシタルカメラ
FUJIFILM FinePix S9000 (取扱説明書 PDF  / ダウンロード / 仕様 / 参考評価)
u00015u51f091f8be6a1
35mm判換算で28~300mm。手動式ズーム。
スーパーマクロで、被写体まで最短1センチ
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201410043
-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-
201410042     201410041
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フィルムカメラ
PENTAX MZ-5 (WikiPedia / 参考)
201410043
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CANON オートボーイ LUNA
201410042
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KONIKA Revio (アフターサービス)
201410041


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カメラ一覧リンク

歴代カメラへのリンク

食パンの皮

横浜市に転居した頃、我が家は貧しかったようだ。

秋田市の家には、当時高校生のおいらとお袋が住み、親父は単身東京住まいをして横浜に家を新築していた。

東京都板橋区内のアパートに住み仕事をしながら、暇を見つけては新築工事の立会いをしていたと聞く。
現代のように建築専門会社が多数無い当時、新築は東京都大田区蒲田の大工の棟梁と契約して工事を行ったようだ。  基礎工事等には親父も手出しをしていたことが、後になって調べた書類から伺い知れる。

そうして完成した住居に移り住んだ後、親父とお袋の朝食は「食パンの皮」だった。
皮と呼ぶのかは判らないが、焼きあがった食パンの長い方向にできる固い部分である。

今では 「能見台」 という洒落た駅名になっている京浜急行の駅は、当時は 「谷津坂」 という駅名だった。
横浜高校への最寄駅でもあるが、当時は住宅用宅地整備に西武が力を入れており、「湿地」 を連想させる名称を変えてしまったとのことだ。  今では駅に近いエリアがメインとなっているが、当時は横浜高校に近いエリアがメインであった。  そこにパン屋が有ったのだ。

このパン屋は、食パンの皮を無料で配布しており、これを知った親父が毎朝の食事としたということだ。
秋田の田舎者とばかり思っていた親父達が、皮とはいえ食パンとインスタント・コーヒーで食事する姿にヘェ~と思ったものである。 (おいらは、朝食無しで出社していた)

考えてみれば、太平洋戦争に出兵し、ビルマ(インパール) でイギリス軍戦時捕虜として暮らした経験を持つ親父がパン食をすることは不思議なことでは無い。

そんな朝食生活が1年程度は続いただろうか。
或る日、くだんのパン屋が無料から50円にしたことで、以降はロール・パンの朝食に変わっていたっけ..

私の過ごした 0311

2011年(平成23年)3月11日(金)、地震が発生した。
後に気象庁により、東北地方太平洋沖地震と銘々された巨大地震だ。
日本の太平洋三陸沖を震源として発生した巨大地震により大津波をもたらし、東日本大震災と銘々された。
東日本大震災は、福島第一原子力発電所事故を引き起こし、電力供給不足による計画停電となった。
時期を同じくするかのように長野県内でも大地震が続いた(長野県北部地震長野県中部地震) が、東日本大震災の影に霞み話題に上ることが少なかった。
当時おいらの住んでいた東京圏でも それまでに経験したことの無い揺れだった。
既に3年を経過したが、ボケ防止の意味を含めて思い出しながら3.11から数日間のおいらの事を記録に留める。

勤務していた事務所は東京都中央区日本橋、浜町の明治座ビルから1年前に移転した東日本橋の11階建ての4階にあった。 1年前に新築したビルであったが、隅田川にほど近い立地の為、地震に弱い場所と言えるだろう。


3/11
は金曜日であり、明日からは休日というノンビリした気分の15時近く、地震の揺れを感じた。
地震慣れしている関東人だが、それまで経験した事の無い、強烈な揺れだった。 「いつもの地震」 と思い、殊更のこともせず仕事をしていた。 しかし、おさまらない揺れに仕事を中断し、椅子に座るよりは..と思い、床に座る。
随分長く感じた揺れがおさまり、テレビを付けると東北地方の太平洋側で大地震が発生したことが報じられていた。
過去の経験からこの様な場合、東京圏では公共交通が動かなくなることが予想できた。女性派遣社員をはじめ若い男子社員が騒ぐ中で、身の振り方を思案した。本日帰宅するのなら、早めの行動を起こさなければならないだろう。
「会社からは早期退社の指示は出ていない」・「本日中は、公共交通による移動は困難だろう」・「タクシーを利用するなら、今の内」 等など...結論として、会社からの退社指示があるまでは、事務所で待機することにした。

鎌倉市の自宅に電話したところ、地震の第一波が治まった直後だった為、すぐに通じた。 女将共々、自宅の状況は無事とのこで、一安心。 「おいらは即座に帰宅行動ができない。遅くなるに従い、帰宅は困難になる。その場合、安全の為、事務所に宿泊する。帰宅できるのは数日後になるかも知れない」 旨を、電話が切れないことを念じながら、手短に伝えた。 「自宅は大丈夫だから、心配するな。無理して帰宅しようとせず、安全第一で、良い方法を取れ」 という女将の返事で、安心する。 ちなみに、我が家はアナログ電話であったため通話できたが、光電話であった隣家では電話が通じず我が家に電話を借りに来たことを後日談で聞いた。 アナログ電話は良い。
ここまでの手筈は、地震発生から5分程度で終えた。すなわち、15時前ということだ。

15時30分頃には、帰宅せず事務所に泊まることを決めた。 巷の安ホテルよりは、会社のビルが安全だろう。
16時前には、近くのコンビニに出かけ、夜食を仕入れてきた。 既に、食料は品薄状態であった。
時間と共に、「公共交通機関が動かない」⇒「タクシーは道路混雑」⇒「徒歩で帰宅する者がでている」ことがテレビ報道されはじめた。
18時迄が勤務時間の会社から早期退社指示があったのは、17時を回った頃だった。 しかし、既に帰宅の足は無く、半数近くは事務所泊をせざるを得ない時刻である。 翌日が休日だったことも有り、徒歩で帰宅に挑んだ者も多かった。 こんな遅くに早期退社指示を出すのは間抜けな事だと思ったものだ。
その夜は、事務所の椅子で仮眠しながら、テレビ報道を見て過ごす。

3/12早朝になっても、公共交通機関は完全に運行されていなかった。 複数の電車路線を利用できる位置に在る事務所であったが、当日運行されている電車は無かった。
しかし、6時のニュースでJRが運行開始される旨、都営地下鉄1号線(都営浅草線) が運行される旨の報道がなされた。 洗面や身支度もそこそこに、帰宅の段取りをして退社する。会社傍の街は何事も無かったかのように静かだ。
都営浅草線で品川に至れば、先はJRを利用することで帰宅できると読んだ。 しかし、そんなに甘くはなかった。
都営浅草線内の人形町⇒泉岳寺までは、予想外にスムーズ。 泉岳寺⇒品川 間は運休している京浜急行路線とのことで、徒歩でJR品川に到着。 道路は車道・歩道ともに混雑している。


JR品川駅は、おいらと同じ魂胆を持つ者でごった返していた。
京浜東北線・横須賀線・東海道線の各ホームで、「このホームに着く電車は混雑している為、当駅では乗車できない。別のホームに行け」 という内容が繰り返しアナウンスされる。 しかし、どの路線が動いているのか? どの電車なら乗り込めるのか?」 さっぱりわからない。 各ホームの係員同士の連絡が取れていないことが知れた。
各ホームでバラバラの内容のアナウンスの都度、それに惑わされるように乗客がホームを右往左往する。 繰り返されるアナウンス・乗客の声・そして余震を告げる緊急地震速報の電子音等で、ホームは喧噪に溢れ返っていた。  極稀に着く電車は、始発のJR東京駅から乗車した人達で立錐の余地も無く混雑しており、乗車するどころでは無い。 しかし、JR品川からどこかに移動するにも移動手段が無い。 腹をくくって、自動販売機を見つけて水分補給し、ホームのはずれに在るトイレに寄り、突然死の防止措置をした。朝食は昨日に買い溜めした物を会社で済ませてきたが、駅では当然のようにキヨスクが営業していない。
そんな状況の中で2時間ばかりアッチこちのホームをうろつき、やっとのことでJR大船止まりの電車に乗り込むことができたのは運が良かった。 普段は停車するJR横浜駅を何故かノンストップで通過した為、混雑しているものの途中での乗降が無く、快調に運行された。 JR横浜駅で降りるつもりの人が騒ぐ声が聞こえていたっけ。

JR大船駅では、更に先に向かおうとする乗客で混雑していた。 駅前広場には、路線バスを待つ人が列を成すが、バスは何時来るのか?。 タクシーはいつ来るのか判らない。  そんな中 おいらは、徒歩で10分掛からない自宅に着き、やれやれ。 築6年の我が家は、何事も無し。 取りあえずは爆睡。
当時は野々市の新築工事が進んでおり、併せて鎌倉宅は売却契約済みだった為、被害の無かった事に安堵也。

朝食って

これまでの人生の大部分は、朝食をとることをしなかった。
学生時代迄は、食べていた。 北国の秋田市では食べずに出かけると寒かった為だろうか。

しかし、上京し仕事に就いてからは朝食は抜きだった。
通勤時間が長かった為なのか、二日酔いが多かった為なのか、わからない。
両親は食パンの皮と言えども、必ず食べていたのだが...
夏の夜明けが早い時期に気が向くと、京浜急行の1番電車に乗り、東京駅の地下に在ったサウナに立ち寄り朝風呂してから出勤することがあった。金沢文庫駅から乗車する電車は早い時刻から運行され、早い時間に東京駅に着けた。
そんな時には、インスタントラーメン又は喫茶店のモーニングを食べる事もあったが、殆ど朝食は抜きであった。

肝臓を壊してからは、減量する為にも朝食は抜きであった。
肝炎が治り酒を飲み出してからも朝食をとりたいという気持ちがなかった。 糖尿病を宣告されても同様だった。
しかし、10年程前からまじめに糖尿病の治療をはじめ、健康管理士から 「糖尿病の薬を飲むと低血糖になりやすく、それを防止する為に必ず朝食をとる」 ことを指導され、以降は致し方なく 食パンを1枚食べている。
食パン1枚程度で、どの程度に血糖値に影響があるのか(?) 知らないが、低血糖発作症状の経験は無い。
WikiPedia:低血糖より抜粋引用
例としては、大量の冷や汗、動悸、振戦、譫妄などである。アドレナリン、ノルアドレナリンによる諸症状として、精神症状は、にらんでいるような顔つきになり、暴力をふるったり、奇声をあげたりすることがある。身体症状は心拍数や拍出量の増加、血糖と脂質の上昇、代謝の亢進、手足の冷え、呼吸が浅い、眼の奥が痛む、動悸、頻脈、狭心痛、手足の筋肉の痙攣、失神発作、月経前緊張症、手指の震えなどがある。低血糖症の症状のなかでも、細胞のエネルギー不足で起こる症状は、異常な疲労感、日中でも眠気をもよおす、集中力欠如、めまい、ふらつき、健忘症、光過敏症、甘いもの欲求などがあげられる。
本当に効果があるのか(?) と健康管理士の指導に疑いを持ちながらも、僅かな朝食を続けている臆病者だ。

恐怖の階段

教えていただき購入した保護眼鏡は、なかなかに良い具合である。 
眼鏡の縁にまで、UVカットが施されているので、最近は、すっかり散歩の愛用品となった。
普段使っている遠く用眼鏡もUVカットしているのだが、花粉除けにマスクをすると曇ってしまうので、曇り止め加工もされている保護眼鏡のほうが視野が明るいような気がする。
保護眼鏡を着用して恒例の散歩中に、フト以前階段で怖い思いをした事を思い出した。

鎌倉市から野々市市への本宅の引っ越しを済ませた後、野々市市に女将を残して おいらは単身生活を送る為にJR大宮駅から徒歩10分ほどのアパートに移り住んだ。
当時の年齢で退職すると国民年金が満額受給とならなかった為、特例措置を受けられる年代迄の約半年を勤めることにした。 勤めながら1~2ヶ月毎に野々市に帰宅する際、新幹線で東京⇒大宮間の30分を無くすることを目論んで、大宮にアパートを求めた。 6畳(押入別・クーラー付)+4.5台所+トイレ+バス=3万円/月 (安い)
鎌倉市 ⇒ 大宮アパート への引っ越しは済ませていたので、野々市からの移動日にはアパートに着くなり布団を引っ張り出してサッサと寝てしまった。
糖尿病の薬が切れかけていた為、翌日から病院探しとなり、同病のさいたま市民が奨める内科をチョイスした。
診療受付時間が20時迄であり、日本橋浜町の勤務地からでも間に合う事が選択の理由である。
デビューの日は病院を探しながら行った為、20時ギリギリに到着し、診察を終えて薬局を紹介されたのが21時に近い頃だった。
病院にほど近い薬局は 「ソニックシティ」内にあり、道路からは階段を昇る必要があった。


薬を受け取り、「ソニックシティ」の2階から道路に降りる階段の在りかが、視力の悪いおいらには判りにくかった。
やっと見つけた階段は、階段のステップを識別することがとっても難しかった。
(後日の昼に見たところ、グーレーの階段に、ステップの角も同系色)
路上は車のライトが煌々とする中で、目くらまし状態でステップの位置を見分けることができないでいるうちに、階段を踏み外してしまった。
片足が宙に浮いてしまった(階段踏み外し)ことに気づき、残る片足で儘よ(!) とばかりに、道路をめがけてジャンプした。

よたつきながらも 転ぶことも無く着地に成功し 事なきを得たが、コンクリートだらけの周囲で転倒したら、えらいことになっただろうと思うと 今になってもゾーとする。

階段は目立つようにして 手摺を付けて欲しいと思うのは、一握りの高齢者の我儘なのだろうか。

秋田市探訪

2006年(平成18年) 初夏、青春時代を過ごした秋田市を訪ねた。
これで秋田も見納めという思いで、八幡平鹿角市に向かうついでである。

久保田藩の城下町とはいうものの、小さな町だな~と改めて思う。 市町村合併により人口は少なくはないが、中心部は昔の佇まいである。

千秋公園の名が知れている久保田城跡を訪ねる。
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春さきには蓮の花が咲き乱れる堀だが、すでに特別のことは無い。

P1000066

久保田城の二の丸になるのだろうか。 佇まいは昔のママだ。
ふと高校時代を思い出すほどに、なにも変わっていない景色。

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久保田城を通り抜けると細い階段がある。
リンゴ箱に砂を入れて、この階段を上り下りしては足腰を鍛えたものだった。

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単線の鉄道が走る鉄橋は、悪行の想い出が多い場所だ。
  • 鹿角郡花輪町から転居したばかりの頃、近所の子供と喧嘩したところ親が怒鳴り込んできた為、親父に木剣でしこたま殴られ、おいらは悪くない..ということで家出した時に渡った鉄橋。
  • 自転車のブレーキ管に火薬を詰めて作った鉄砲の試し打ちをした鉄橋下。
  • 渡っている時に列車が来て、慌てて逃げた鉄橋の避難スペース。
  • 大水の後は、大漁を狙って魚釣りした鉄橋下。
彼方に臨む大平山(たいへいざん) は、母校の校歌にも歌われていた。
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母校を覗き、市内をブラブラ。 仕上げは、秋田市の繁華街である川反(かわばた) に立ち寄り。

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