無無無庵

(むさんあん) - 思考が無く - 躰が無く - 心が無く
トキメキ団塊親父のセカンド・ステージ - 退職爺のボケ封じ

自浄伝

凧作りの想い出

子供の頃、 親父がを作ってくれたことがある。
当時住んでいた秋田県鹿角郡には、真竹孟宗竹のように凧作りに向いた竹が生えず、笹竹で作った。
おいらとしては、奴凧が欲しかったのだが、作ってくれた物は日本風の四角な凧であった。
笹竹では、曲げ加工が大変だったのだろう。 できあがった物は、見かけは立派で、揚がりそうだった。

凧に張った紙には障子紙以外には和紙が無かったのだが、幅の限られた障子紙を張り終えてから文字を書くしか方法が無かった為、骨の部分だけが目立つ文字となってしまった。
親父は達筆であり、事務所開きの看板や、表彰状等の書記を任じられていたのだが、凧の表書きは苦手だったということか。
できあがった凧は近所の空き地でを揚げたのだが、(後日その地を訪ねてみた) よくぞあの狭い場所で(?) と思う。

凧の足(尻尾) には新聞紙を刻んで利用したが、当時の粗雑な新聞紙では すぐにちぎれてしまった。
それでも、「調子を見てやる」 という親父の言いつけで、おいらは凧を抑えている役目であった。
なかなか揚がらない凧と、だんだんと短くなる凧の足にジタバタとしなから、「おらにも揚げさせてけろ~」 とグズったのだが、最後の最後になるまで凧の糸を持たせてもらえなかった。 ちなみに、親父お手製の立派な糸巻だった。
ちぎれた足は重しの役目をせず、頭を下にしてズルズルと引きずっているうちに、哀れな凧になってしまった。

なにやら忙しい親父に何かを作ってもらった記憶は、その凧が最後だった。 今日は、こどもの日なそうだ。
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WikiPedia:こどもの日より引用
祝日法2条によれば、「こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する」ことが趣旨。
ということだが、もうじき また母の日だけ来るのは、不公平だね
WikiPedia:母の日より引用  ※5月第2日曜日
日頃の母の苦労を労り、母への感謝を表す日。
WikiPedia:父の日より引用  ※6月第3日曜日
アメリカの女性が、男手1つで自分を育て亡くなった父を讃えて、教会の牧師にお願いして父の誕生月である6月に礼拝をしてもらったことがきっかけと言われている。
WikiPedia:敬老の日より引用  ※9月第3月曜日
祝日法第2条によれば、「多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う」ことが趣旨。
WikiPedia:成人の日より引用 ※1月第2月曜日
祝日第2条によれば、「おとなになったことを自覚し、みずから生き抜こうとする青年を祝いはげます」ことが趣旨。


関連過去記事

鹿児島に行く

1973年(昭和48年)、同期入社した NM の結婚式の司会として鹿児島に行った。
1968年(昭和43年)に東京支店に同期入社した者は、NM、YY、SN、AY、SI、S?、MY、HY、私、の9名と、それまでのオリンピック景気採用時の1/8程度であった。 9名の内、4名が結婚式に参列することとなった。 
当初は4名でカーフェリーで行く計画だったが、台風来襲の天気予報があり、司会のおいらが到着しなくてはマズイという。 結局、おいらは夜行寝台で、他の3名が別府迄カーフェリーで行くこととした。

夜行列車には付き物の酒と、女将自慢のツマミ持参で寝台車に乗り込む。
寝台車と言えば聞こえが良いのだが、安月給の頃のこと、3段ベットの最上部が指定席であった。
既に酔っぱらって乗車した列車が動き出す頃にはベットで爆睡し、目覚めた時には呉駅を通過した頃だったろうか...暗がりに燃える工場群の焔が美しい。
やがて明るくなり寝台がたたまれた頃、山口県の某駅から子連れの女性が乗り合わせた。
聞けば、遠洋航路に乗船している旦那が、鹿児島港に停泊することになったので面会に行くのだそうだ。

寝台特急の終着駅(鹿児島中央駅か?) まで迎えに来てくれたNM の車で、自宅に向かう。
到着迄かなりな時間が掛ったが、自宅は川内(せんだい) だったようだ。
司会者到着ということで、NM の家族に大歓迎されて自宅入り。
親父さんが沸かしてくれた五右衛門風呂で寝台車の汗を流し、ズイキの煮物をツマミに飲んだビールの美味い事。
手水場は、母屋の別棟に在り、下には跳ね避けに竹の葉を敷かれていた。 秋田なら杉の葉なのだが..
翌日は無事に台風を乗り切り到着したカーフェリー組を向えて、結婚式場の下見。 
そして翌々日の本番を済ませて、またまた大宴会である。
明けて4日目は完璧な二日酔い状態でNM の家を後にし、九州観光に向かうことになった。
現在なら、酒気帯び運転で逮捕間違いない。 後日談によれば、1人当たり焼酎を1升は飲んだとの事だ。

鹿児島が実家のHYを残し、YY、SNとの3人で熊本に。 第1目的地はYYの妻実家が有る壁湯温泉
阿蘇山 ⇒ 天草 ⇒ 長崎 ⇒ 別府 を周遊し、カーフェリーにて帰郷。 
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9名の同期入社中
  • MYは、自爆交通事故で死去。
  • S?は、入社の翌年に希望退職。退職後、広島で再就職したらしい。
  • AYは、58歳で上司と喧嘩して故郷の青森に帰郷し、連絡取れず。離婚したきり。
  • YYは、2度の結婚をし、現在は円満そう。心臓悪し。再就職?
  • HYは、年齢は1つ上だが、虚弱体質の為学年落ち。再就職?
  • SIは、連れ合いにガンで先立たれたが、再婚。悠々自適生活の模様。
  • SNは、入社後数年に希望退職し、元気そう。
  • NMは、元気そう。再就職?

自動巻き腕時計

高校に入学した祝いに、自動巻き腕時計を買ってもらった。 「セイコー5」 のネーミングだったような記憶。
今では電波腕時計が大半のようだが、当時の自動巻き腕時計は最先端であった。
WikiPedia:腕時計によれば
1955年には国産初の自動巻腕時計「セイコーオートマチック」が発売され、その後も「グランドセイコー」、「シチズン クロノメーター」など、スイス製に匹敵する精度の国産時計が登場した。
東京オリンピックの公式時計にも採用されたセイコー社の腕時計は、おいらにとってステータスであった。
自動巻の中でも、日付けと曜日の入る物に憧れたが、当時の秋田市では注文発注であった記憶。
そして、入手した憧れの品は、こんな感じだったな~  曜日は、日本語表示に変更できたな~

その腕時計をはめて上京した頃の周囲では、既にクォーツ腕時計が流行はじめていた。
しかし、セイコーの自動巻き腕時計は質草にもなりうる時代であったので、だいぶお世話になったものだ。
外国製の腕時計やライター・背広が、立派な質草になった時代だった。

そうこうしている内に、デジタル腕時計が出回るとともに、自動巻き等の機械式と呼ばれる腕時計は影が薄れ、質草になるような腕時計は見かけることが少なくなった。

最近では、携帯電話やスマホに付いている時計がある為、腕時計をしない者が多いと聞く。
腕時計を持っていない営業マンが、わざとらしくスマホを取り出して時計を確認する姿はいただけないと思うのは、おいらだけかな~
現在は、退職前から使っている電波腕時計(針付き、日付け・曜日入) を利用しているが、視力の低下とともにデジタル表示(黒色) の日付け・曜日が見づらくなってきた。

また、昔のような自動巻き腕時計に戻ろうかと思う今日この頃である。

子供のいない老夫婦

我々夫婦には子供がいない。
その為、孤独死か老人ホーム(有料老人ホーム老人福祉施設)で最後を向えることになるだろう。
そのことに異存は無い。 
我々夫婦が結婚するにあたり、お互いに、子供をもうけることを求めない相手を探していたからだ。

子供を作らない事についての 女将の本心を聞いたことは無い。
我輩については、我輩が育てる子供はロクな者にならないという信念からだ。
今 年老いて振り返っても、正直それでよかったと考える。

女将は、我輩よりも7歳年上である。 
我輩が21歳、女将が28歳の時だった。ボケても忘れんようにクリスマス・イブの1ヶ月前に入籍した。
結婚を考えた当時には、男女の平均死亡年齢に7歳の差があった。
その為、手に手を取り合って一緒に死ねるね~ ...と言うのが2人の思惑だった。
思惑どおりとなるか(?) は、今後の行く末を見なければ判らないが、まあ順調というところだろうか

高齢者と呼ばれる年代になり、今後のことを夫婦で話すことがある。
どちらかが躰を動かせる間は老老介護も良し、面倒になったら2人で老人ホームのお世話になるも良し。
アルツハイマーやボケが始ったら、または大きな病になったら、1人で老人ホームへ。
ということにしている。 2人が揃って突然死する状態が、一番の心配だ。

今のところは 「1人じゃ寂し、2人で暮らしましょ」 が合言葉である。

東京に行く事

秋田で産れ育った我輩が、東京に出たのは3度だけだ。
3度の上京経験以外にも、旅の途中で限りなく東京に接近することはあったが、敢えて東京に立ち寄ることは しなかった。 ひそかな憧れがあったのかも知れないが、それよりも 「東京はガチャ場」 という印象が強かった。

初めて上京したのは、小学生の頃である。 (たぶん、鹿角郡花輪町に住んでいた頃)
長距離急行列車の三等車は、板張りの狭い対面式座席だった。 (特急という物が有ったのか?判らない)
Box状の狭い座席に4名が腰かけるのだが、横になることなどができるハズも無い。
東京行の急行は毎日運行されるのでは無く、2~3日(1週間?) に1度という記憶。 その為、混雑していた。
親父はひたすら座り続けていたが、我輩の為に板を持参していた。
対面式座席の両側に板を渡すことで、子供の体格であれば横になることができた。
到着した東京ではアチコチと連れまわされたが、記憶しているのは上野公園である。
既に終戦から10年を経過していたが、傷痍軍人のフリをして傷病兵の白衣姿でアコーデオンを弾く人や、道行く人達に物乞いする者にビックリしたものだ。  親父に、「そっちを向くな」 と言われた。確かに怖そうだった。
帰郷してからは 「秋田が一番良い」 と子供心に思ったものだった。

2度目の上京は、関西方面を目指した高校の修学旅行である。
秋田駅 ⇒ 上野駅(東京駅) は、長距離特急で移動した記憶であるが、定かでは無い。
東京から奈良に向うには、当時運行を初めたばかりの新幹線を利用した。 名古屋からは観光バスという記憶だ。
乗り換えとなる東京駅で (横浜に家を建てる為) 当時は単身で東京勤めをしていた親父が出迎えてくれ、新幹線乗車迄の短い時間に、東京駅八重洲地下街の食堂で朝飯を御馳走してくれた。 その食道は、我輩が退職し東京を離れる頃にも営業していた。 当時を想い出しながら、これを食べたのでは??と思う物を食べてみた。 美味かった記憶の想い出が消えうせ、食べなければよかったと思った

3度目の上京は、社会人として勤務する為だった。また、既に完成していた横浜の自宅への転居の為でもあった。
卒業式を終えてから、同級生と共に居酒屋で祝杯を重ねまくっていたら警察に踏み込まれた。
我輩は その夜発の東京行の切符を握って逃げ列車に飛び乗ったが、同席の奴等のその後は知らない。
過去2度の上京時には、列車内で熟睡していたので途中駅の景色は およそ知らなかったが、この時は秋田との決別という意識があったのか(?) しっかりと景色を眺めながらの旅となった。
特急列車の長旅で、夜が明けてきた宇都宮駅、秋田では珍しい恰好をした女子高生が駅ホームに立つ大宮駅。 あぁ、東京に来たんだな~ という妙な感慨を抱いたものだった。
いかにも終着駅といった風情の上野駅に お袋共々降り立ち、出迎えてくれた親父と合流し、更に電車を乗り継いで横浜の新居に向かった。 しかし、なかなかに着かない。  それもそのはずである。
秋田の田舎者の我輩は、「横浜と言っても東京の一部...」 という理解であったのだ。
しかし、東京と横浜は別物であり、列車内で東京に近づいたと思った宇都宮駅や大宮駅は 東京とは無縁の地であることを後日になって理解した。 ※東京駅 ⇒ 品川駅 ⇒(京浜急行)⇒ 横浜駅 ⇒ 金沢文庫
卒業時の担任教師の言葉。 「東京で林檎を食う時は、良く洗え。 ワックスが塗ってあるぞ」

当時流行っていた歌 「スタコイ東京」
 歌詞
歌:菊地正夫 作詞:北原じゅん 作曲:北原じゅん




それからは、東京者のフリをしている。 「秋田に行こう」という気持ちも薄い。 「帰ろう」という気持ちは皆無である。
昔の上京手段で それしか無かった長距離列車は、新幹線に替わり、24時間に亘る長旅をすることは無くなった。
今 東京で出稼ぎする者・故郷を離れた者にとって、故郷は遠くない。 
我輩にとって、故郷は無い。 死に場所は、当地だ。 もう、上京することも....

東京の灯よいつまでも
 歌詞
歌:新川二朗 作詞:藤間 哲郎 作曲:佐伯 としを

ダイエット宣言

大工のげんブログ」で、「高め安定」を拝読した。
ダイエットされている様子である。 現在は73Kg程で血糖値を心配する立場のようだ。

同じ悩みを持つ我輩の場合、血糖値(HbA1c)が9.0程度だった5年程前の体重は75Kg超だった。

その後、糖尿病の改善に努めたところ、4年前にはHbA1cが6.0、体重は65Kgになることができた。
しかし、血糖値を下げる為に一時期 (1ヶ月程だったろうか)インスリン注射を用いたので急激に下がり過ぎ、糖尿病網膜症を進行させてしまったようだ。

以降は、この状態で安定し、2年前の埼玉県大宮で単身赴任中はHbA1cが5.3、体重は64Kgを維持できた。
しかし、当地に転居して以来、特に悪行をしたつもりが無いのだが、HbA1cが6.0になり、高値 (基準値ギリギリ) 安定の状態となっている。 呼応するように、体重は77Kgになってしまった。 糖尿病の治療開始前の体重に戻ったことは、まことによろしくない。 以前に比べて、通勤が無くなった分は散歩しているし、酒量の変化も無い。
夕食が遅くなったことが原因であろう(?)と考えている。
2014年内に、70Kgになることを目指そう。 1ヶ月当たり 1Kgの減量。
併せて、節煙する。 25本/1日 ⇒ 15本/1日 を初期目標とし、10本/1日が到達目標。


現在 通院している総合病院の担当医は あてにならない。 糖尿病薬を出すだけの自動販売機といったところか。
血圧が高くなろうが、悪玉コレステロールが増加しようが、それに対応する指導・投薬を行わない。 淡々と事務的に血液のデータを採取するだけで、血糖値以外のことは話題にしない。 総合病院なるがゆえに他診療科が担当することには口を出さないということなのか。 血糖値だけを見て、よしよしと言うことなら 我輩でも判る。 
眼科が良いドクターだから我慢しているが...内科系については病院を代えたい。
しかし、通院先を変えることは それ迄の診察記録が旧病院に残置され、新病院では見ることができない状態となり、転居に伴い この10年の間に4か所の病院・ドッグ先を遍歴した我輩は その不都合を体験している。
電子カルテでは、過去の他病院での診察記録や人間ドッグの結果を利用できるのだろうか??

※本記事中のHbA1c (ヘモグロビンA1c) は、いずれも旧基準(JDS)による。

  • ヘモグロビンの生体内における平均寿命は約120日であり、HbA1cのヘモグロビンに対する割合は、過去1ヶ月~2ヶ月の血糖値の指標となる。
  • 日本では日本糖尿病学会により、検査の国内標準化(JDS)が行われていた。しかし、国際的には米国の NGSP が標準化に採用されており、日本独自のものとなっていた。2012年4月より日本でもNGSPを用いることが決定し、臨床検査に用いられている。しかし、特定健診・特定保健指導では、JDSを継続使用することとなっており、ダブル・スタンダードとなっている。
  • JDS  優 5.8未満、良 5.8 ~ 6.4
  • NGSP 優 6.2未満、良 6.2 ~ 6.8

免許証の自主返納

今年の誕生日が過ぎたら「自働車免許の自主返納」をしようと考え、手続きを確認。
返納後に希望すれば取得できる運転経歴証明書は、以前は半年しか有効でなかったが、法改正され、期間を問わずに有効となっていた。 これに伴い、住所等の記載事項を変更できる (届け出を義務化) ようになっていた。
WikiPedia:運転経歴証明書(ゼロ免許証)
高齢者の事故増加に対する対策の一環として、免許証の自主返納制度を1998年(平成10年)より実施している。この返納制度の促進策として2002年(平成14年)6月1日より発行されたのが、運転経歴証明書である。これは、運転免許証が身分証明書として社会一般において広く用いられていることが自主返納制度が利用されない一因であることに着目して設けられた。運転経歴証明書はICカード化されない。
ゼロ免許の由来は1973年(昭和48年)4月より発行されていた旧型サイズ(縦6.9cm×横9.7cm)の頃、免許された運転区分が免許有り(1)・なし(0)で表されていた事から運転できる車両区分がないのは全てが0となる事から。当然、一部区分を取り消した場合は発行できず全部取り消しをした場合に限られる。有効な運転免許を申請して取り消した人に限られ、期限が切れた免許証での申請はできない。また、運転免許を取得したことがない人は発行されない。なおゼロ免許証交付後の住所・氏名等の記載事項の変更、及び紛失時の再交付はできず更新制度もない。勿論、過去免許されていた区分に関わらずゼロ免許証で自動車、オートバイ等を運転する事はできない。
なお、2003年(平成15年)1月6日に施行された本人確認法(現:犯罪による収益の移転防止に関する法律)の施行規則において有効期間がない証明書は作成から6か月以内のものに限るとされている。 2012年(平成24年)3月31日以前に発行された運転経歴証明書は、発行から6か月以上経過した場合には犯罪収益移転防止法適用範囲内の手続きを行う際の身分証明として用いることができなかったうえ、紛失をした際などの再交付が受けられなかった。
銀行や証券会社などの金融機関で口座を開設する際や、クレジットカードの入会申し込みを行うに際し、本人確認書類として活用しにくい点があり、制度の改善を求める声が相次いだため、2012年4月1日に政令が改正されることになった。
改正後の運転経歴証明書は住所など記載事項の変更があった際には、所轄の公安委員会へ届出を行うことが義務付けられた一方、犯罪収益移転防止法適用範囲内の手続きを行う際の身分証明として発行からの期間を問わず通用するようになり、紛失した際などは再交付が受けられるよう制度の改善が行われた。

改正前の運転経歴証明書は申請取り消しから5年以内か、記載内容が判読できる経歴証明書を所持している場合は、改正後の経歴証明書に切り替える(再交付)ことも可能である。
白山署鶴来庁舎 (※我輩の場合)
写真(縦3cm × 横2.4cm) 1枚、申請前6ヶ月以内に撮影した物、、正面、無帽、無背景
手数料 1,000円 

顔写真1枚 (6ヶ月以内に撮影、45㎜×35㎜、正面、無帽、無背景)

パソコン利用歴

我輩がコンピューターという物に関心を持ったのは、昭和44年頃に「鑽孔テープ」による業務を与えられたことからだろう。 後から知ったことだが、鑽孔テープはミニコンピュータの入出力を行う為に利用したものらしい。
「ミニコンピュータ」なるものが如何なる物かも知らないまま、鑽孔テープなる物で計算結果が出るということに興味を覚え、コンピューターを学びたいと思ったのだ。
コンピューターを学ぶといっても当時の我輩の周囲にコンピューターを知る人はいなく、書店に出向いては 「コンピューター」 という書架を眺めていた。
しかし そこには FORTRAN とか、Pascalとかのプログラミング言語に関する書籍が並ぶばかりで、コンピューターさっぱりの我輩が求める内容ではなかった。
何度か書店に足を運ぶうちに、「マイコン」 とか 「ミニコン」 なる物が、我輩程度の知識でも遊べる物らしいということが判ってきた。

女将にねだりにねだって、やっと月賦で購入した物はシャープ製のポケコンだった。
BASICが使えたが、プログラムを保存できず記憶容量が小さかったことから、すぐに カセットテープ付のカシオ製に買い替えてしまった。 しかし、カシオ製は沖縄出張の際、沖縄の仕事仲間にねだられた事と 帰京旅費が足りなかったことから、売却することになった。
  • スマホ全盛の今では考えられないが、京浜急行の電車内でポケコンを弄っていたら 「生意気だ」 と言われ、喧嘩になったことがある。
  • この時代のポケコンは、すぐ後で発売された関数電卓にも劣る物だったと思う。
丁度その頃は、パソコンなる物が流行はじめだろうか?
パソコンが欲しいな~と思い、シャープ製をはじめ物色・検討し、BASICを使え当時流行っていたNEC製にした。
はじめて買ったパソコンがPC-8000シリーズであったか(?)、PC-8800シリーズであったか(?)は、記憶に定かでない。
当初買った物はプログラムを保存するのにカセットテープを利用したことから不便を感じて、5インチ・フロッピーディスクを内蔵した物に買い替えているので、NECのPC-8xxxは2台使用した。
  • BASIC・マシン語アセンブリ言語なんて~ものにはまり、挙句の果てには海賊版ソフトの販売店に出入りしていたっけ。
  • Microsoft Multiplan や Lotus 1-2-3 という表計算ソフトが現れ、BASICを用いてプログラムを組むことにバカらしさを感じ始めていた。 
  • 多数のワープロソフトが発売され、パソコンでもワープロができるようになった。 しかし、会社ではOASYSワープロだった為、OASYSも購入した(通算2台)
  • 会社にてデーターベースを構築。手作業管理していた設備状況の一元管理を図る。
  • モデムを購入し、パソコン通信を始めた。NIFTY-Serveを利用。
  • BASICという機種間互換性の無い言語に代り、機種を問わずに互換性があるとの歌い文句でMS-DOSが発売。
MS-DOSを利用したくなり、PC-9801VMに買い替え。 ※PC-9800シリーズ
  • 会社の担当部内にて、OA育成担当を任じられる。 この為、パソコンの新機種研究をするとともに、追っかけで買い試す立場になっちまった
  • 会社パソコンとの整合を図る為、ハードディスクを同梱した8インチ外付けフロッピーディスクドライブを購入。  Windows 3.0  ⇒  3.1
Windows 95 のリリースに伴い、PC98-RA(たぶん)に買い替え。
  • DoCoMo ノートタイプ を購入。(通算2台)
  • IBM ThinkPad を購入。(通算2台)
  • 「パピルス」というオフィスソフトを愛用。 「パピルス」はMicrosoft Officeに負け、今は無い。
  • 会社の担当部内のホームページを開設。
  • ISDNにより、インターネットを始める。プロバイダは、OCN
  • IBMホームページ・ビルダーにより、普通のホームペーシを開設。
  • 普通のホームペーシ ⇒ XOOPS に乗り換え。
その後、Windowsの進化と転居に併せて、VALUESTARに買い替え。(通算2台)
  • 会社でのOA関係業務から足抜けし、趣味としてのみパソコンを利用。
  • インターネット接続には鎌倉CATVを利用。しかし、FAX用に ISDN 利用は残置。
鎌倉市 ⇒ 野々市市 転居に併せて LaVie S (Windows 7) に買い替え、現在に至る。

花輪町の住い

小学校2年生まで暮らした鹿角郡花輪町(現・秋田県鹿角市花輪)で住んでいたのは、赤坂の東山住宅という地域だった。

10年近く前に、後生掛温泉に行く途中で思い切って尋ねたことがある。
昔は何もなかったが、最近では東北自働車道が走る便利そうな場所になっていた。
そこから花輪小学校まで通っていた。 冬はスキーで滑り下れば、アッという間に着いたような記憶だが、なんと1Kmはあるのだな~

住宅から花輪町に通じる1本道はバスも通らず、ただ歩くしか交通手段の無い頃だった。
小学校に行く以外は、花輪町を徘徊することもできない年代だった。
母親の財布から数十円をくすねて、花輪町の入り口付近に出並ぶ小母ちゃんの店で何かの食べ物を買ったことが、唯一の冒険だったかもしれない。
住宅の脇に在ったゴミ溜めはいまだに有った。
そばの杉の木に縄を結んで、ターザンごっこを仕損じてはゴミ溜めに落ちたもんだ。
ゴミ溜めに転がっているリンゴ箱の釘を足の裏に刺しては、親父に怒られながら血抜きをしてもらったな~ (当時は、破傷風であっけなく死んでしまう時代だった。)
ゴミ溜めの脇には、アカシアの樹が立ち並び、春には蜜蜂が飛んでいた。
大きな地図で見る

居住地探し

野々市に転居して、もうじき1年が経つ。
早いものだ。

横浜市金沢区から鎌倉市に転居したが、どうも鎌倉市は住みよい場所ではなかった。
観光地としては立派なところかもしれないが、老後の永住地としては考えさせられた。
老朽化したデコボコの狭い車道を路線バスが走る。
更に狭い歩道は、あるところでは車道側に傾き、数メートル行けば家屋側に傾き、車いす等では危なくて通行できたものでは無い。
そんな場所に見切りをつけて新天地を探しはじめたのが、2年ほど前になる。

いまどき流行りの自然に帰ることも考えたが、半世紀で身についた都会の便利な暮らしから一気に自然派になることは聊か考えた。

やはり老後は、医療設備が整っている土地が良いだろう。
ペーパードライバーで目の悪い者としては、公共交通機関の利用しやすい土地が良い。
大阪圏は絶対に嫌だ。
できれば生まれ故郷の東北が良いな~

という条件で、居住地を探し始めた。

だいぶ探した場所の中で、初めて現地視察を行った所は仙台市である。
仙台市青葉区の北仙台駅・愛子駅。
以降は、山形県・福島県等など。
女将は、銀山温泉に旅した際の最寄駅である大石田付近にだいぶ拘っていた。

長野県の佐久に現地視察した際の宿は思い出深い。
真冬とはいうものの、夜には氷点下9度という未体験の寒さになった。
環境は極めて良かったが、寒さを体験しただけで遠慮してしまった。

結局は、関西文化圏に近いものの、それ以外の条件をクリアできる場所として金沢市が選択肢に残った。
現在は野々市市になったが、当時は野々市町であった為、金沢市の一部かな(?)と考えてしまったが調べてみたら独立した地方自治体であった。

市内には山も海も無い平坦な土地であるが、住めば都とはよく言ったもので、白山から流れ出る川の分岐が数多く流れる穏やかなところだ。
いまどき、市町村合併もしないで単独で市制執行ができたことは大したものである。

東北地方太平洋沖地震の発生前に購入契約を行ったが、当時はやれやれと安堵したものである。
安倍内閣の退陣を熱望

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