無無無庵

(むさんあん) - 思考が無く - 躰が無く - 心が無く
団塊世代のセカンド・ステージ - 退職親父のボケ封じ

想い出

宇佐に行く

U.M.とは、大田支店勤務の頃に知り合った。
大田支店は東京都大田区のJR大森駅に程近く、大衆的な飲み屋の多い土地柄で、最終電車が無くなるとK.K.と共にU.M.のアパートに転がり込むのだ。
独身のU.M.に結婚を奨め、U.M.の産地である大分県の女性との話がまとまった時には結婚式に呼ばれたりした。

結婚式には、K.K.とT.Y.、H.N.の4人で宇佐市を訪ねた。
大分空港⇒別府⇒宇佐市 と移動して宇佐市のホテルに1泊し、結婚式に参列したのだが、詳細は記憶にない。
2泊した翌日からT.Y.の運転するレンタカーで湯布院とかを観光したが、これまた詳細は記憶にない。
なんせ、運転手以外は車内で酒を飲み、昼飯じゃ~といっては酒を飲んでいるだけなのだから、致し方無い。
3泊目は別府温泉に泊まり、フグ屋なんぞでこれまた飲む。
フグと聞いてビビッていたK.K.とT.Y.であったが、俺の強奨に一口食べたところ 「これは美味い」 ということになり、人の分にまで箸を出す始末と相成り、大笑い。 「食べ過ぎで死ぬゾ」 という落ちが付く始末。
翌日も朝から飲み、飛行機の立つ時刻まで間が有ったので、JR別府駅に程近い公衆浴場に入った。

公衆浴場との看板を見て そうなんだろうと思っていたが、内部は日本風の宿であった。
聞けば、昔は旅芸人が利用した木賃宿だったとのことで、8畳程度の大部屋から3畳ほどの小部屋が不規則に並んだ部屋だらけである。 「四畳半襖の下張」を彷彿させる作りになっていた。
公衆浴場と称するものは、半地下になっており、階段を下って入浴するというものだ。

2時間ほど仮眠したが、それも飽きたので早めに大分空港に行ってみたら前の便がフライトできずに居座っており、空港職員が3人の空席が有ると客引きすするので、それに飛び乗ったという次第。
搭乗機は最後尾にでかいエンジンが付いた機体で、遅れて乗った我々はそのエンジンに囲まれた騒音素晴らしいシートに座らせられた。 謀られた!! と思っても後の祭りである。 東京に近づいたハズなのにさっぱりと着陸せず、下には新島が見えるような位置にまで飛んで滑走路空きの順番待ちという状態にうんざり。

その後のU.M.は、目出度く第1子を妊娠し、JR大森駅近くのアパートから杉並区の社宅に転居した。
出産の為に奥方が宇佐市に里帰りしている時、U.M.の予てから希望が叶い、九州勤務ということで小倉支店に転勤が決まった。 U.M.とは、新婚の大森アパートにはじまり、社宅への引っ越しも手伝ったが、最後は里帰りしたままの為に奥方のいない社宅からの淋しい荷物運び出しまで付き合うことになった。

俺は勝手に全国に出張できたので、用事をこじつけては年に1-2度は小倉支店に行き、U.M.に逢い飲んだ。 ある時、U.M.が家を新築したので来いとの連絡があり、小倉支店から宇佐市に行った。
御立派な新築家屋は部屋数が多く、既に第2子がチョコマカとしている。 既にすっかりと大分弁に戻ってしまった奥方と、“小さな二人の女の子”の前で酔っぱらっているわけにもいかず、旅の疲れが相まって1升瓶をひっくり返した程度で早々に就寝と相成った。 翌日は、U.M.の案内で宇佐神宮を参拝することになった。
「二拝四拍手一拝」の作法を教わりながらも、二日酔いの俺はウロウロするばかり。 何を見たのか(?)は、サッパリ記憶に無い。
先日LINEに参加した際、偶然U.M.妻を発見。その後instagramにもU.M.妻の写真を発見した。“小さな二人の女の子”は立派な娘になり、当時は20歳代だった奥方はそれなりに老けていた。LINEは良いが、怖いね~

N.M.の結婚式帰りにも訪れた別府温泉や、歴史を辿りたい国東半島は、二日酔い状態ではなく改めて行ってみたい土地だね。 その際には、宇佐神宮にも行こう。 宇佐神宮(公式サイト)



アメリカでは大統領が変わったとやらで大騒ぎしている。 まあ、二・三年は話題に事欠かないだろう。

宇佐をローマ字綴りすれば「USA(うさ)」であり、 United States of America(アメリカ合衆国)と読める。
その為、宇佐神宮は「(USA)うさアメリカ神社」とも呼ぶと聞いた。 新大統領は日本が好きとの話も聞く。

カメラと鏡

親父はカメラが好きだった。 
1932年(昭和7年)に起きた、東京日本橋の白木屋デパートの大火事を撮影した写真が有ったから、いつごろからカメラを所持していたのだろうか??
警視庁消防部(現在の東京消防庁の前身)に勤務した頃に買ったというツァイス(コンタックス)の蛇腹式カメラを愛用しており、俺が中学校位までは触らせてもらえなかった。
消防車の運転手であり、カメラ撮影もできた親父は、2度にわたる出兵も司令部付きだったという。
戦争中の写真を多数保管していたが、親父の葬儀後お袋が焼却してしまった。 惜しいことをしたものだ。

そんな親父は、家族の写真もよく撮った。 俺の成長記や、お袋、そして身内の写真など等。

お袋は 「写真を撮られると魂も盗られる」 という話を信じたわけでは無いらしいが、俺が物心ついてからの写真は少ない。 俺が就職する際に2人並んで親父に撮ってもらったのが、当人の参加意思で撮られた最後である。
50代は嫌々ながらでも撮られていたが、60代を過ぎる頃からはカメラを向けると顔を隠すようになった。
お袋の葬儀の際、映っている写真を探すのが大変だった。

カメラに映ることを嫌うようになった頃から、自分達の部屋にある鏡以外の鏡の前に立つことも減ったようだ。
自分用の鏡以外に映る自分の顔が嫌だったのだろうか??

は、その品質の良し悪しで 映り方が違う。 明るい鏡・暗い鏡、千差万別である。
たかが鏡、されど鏡である。
世の中には、うぬぼれ鏡という物が有るらしい。
今どき、プリクラで写真を撮れば目鼻立ちを補正してくれるという。
そんなことをしなくても、高くても お気に入りの うぬぼれ鏡を買って、楽しい毎日を過ごしたいものだ

関連過去記事:パンツ(ズロース)見えた / 写真を撮ろう-想い出作り / 人相は変えられる
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鹿角の大日堂

高校時代迄は、それなりに遊びに行っていた八幡平である。
上京した後に訪れることが無かったが、寄る年波からか(?)、死ぬ前にもう一度と思い2001年(平成13年) に行ってみた。 その後、再訪したいと考えた際に 東北未体験の女将が同行を希望した為、2004年(平成16年)7月 同伴旅行することになった。

宿泊地としては、後生掛温泉とした。 鎌倉から後生掛温泉迄の交通はなかなか不便であり、約6時間といったところか。 秋田新幹線の田沢湖駅から路線バスで1時間以上かかるのだから、致し方ない。
路線バスに揺られて後生掛温泉が近づくにつれ、温泉地独特の卵の腐ったような硫化水素の匂いがする。
当然、宿でも硫化水素が匂うのだが、女将が匂いが嫌だと言いだした為、予定した部屋を多少なりと匂わない部屋に変えてもらうことになった。
風呂も匂う為、入浴できず 水で躰を拭くことで我慢する始末。 結局 女将は、3泊中で1度も入浴せず。

2日目は、花輪町に出張ることにした。
帰りの便を考えると8時頃には出立しなければならないのだが、後生掛温泉からその時刻に立つバスが無かった為、ホテルの車でバスのある志張温泉まで送ってもらえることになった。
路線バスに乗り込み、まずは大日堂舞楽が奉納される大日霊貴神社を訪ねた。
子供の頃には随分と大きな神社という記憶であったが、改めて見ると村の鎮守というった感じ。
大日堂
通称は『大日堂』と呼ぶ大日霊貴(おおひるめむち)神社では、毎年の1月2日にユネスコの無形文化遺産である大日堂舞楽(だいにちどうぶがく)が奉納される。

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無人駅のJR八幡平駅は、駅前に雑貨屋という感じの店が1軒。 
ディゼルカーで運転される列車は 1時間に1本程度、路線バスも同様で、交通機関が少ない為、1台しか無いタクシーで花輪に向かう。
花輪は、現在は鹿角市花輪と称するが、以前は鹿角郡花輪町と称する この地域では大きな町であり、JR花輪線の名前ともなった。
花輪でタクシーを乗り換え、おいらの住んでいた場所に行ってみたが、昔と変わらぬ質素な風景にガッカリ。
そのまま、道の駅かづのに向かう。 通称 あんとらあ とも呼ばれ、花輪ばやし・花輪ねぷた・鹿角の盆踊り等を一堂に見学できる。
WikiPedia:花輪ばやし
DSCF0040

施設前では、地元の草花の販売がなされていた。

【食虫植物】
DSCF0033

地元名産の切りタンポを昼食にして、宿に戻ることにした。
後生掛温泉(八幡平山頂) 方面に向かう路線バス迄の時間が長い為、JR田沢湖方面から来る路線バスに途中で乗り換えることにした。
しかし、それぞれの路線でバス会社が異なるせいか、バス運転手は乗客の思惑などにはお構いなしである。
遅れて到着した乗り換え停留所の傍には、北緯40度線が通過しているとのことでモニュメントがある。
乗り換える予定路線のバスも遅れていたため、事なきを得た。
秘湯名湯 028後生掛温泉


3日目は、八幡平山頂に向かう。  宿に戻り、硫化水素の匂いを嫌う女将を連れて後生掛自然研究路を散策。
後生掛自然研究路2013秋


写真共有サイト「フォト蔵」
2001年09月-秋田八幡平
2004年07月-秋田八幡平
2004年11月-秋田八幡平
2006年09月-秋田紀行

寿司の御土産

親父は、酒を飲まなかった。  正月に,御神酒を御相伴に与るだけでほろ酔いになる有様であった。
そんな親父でも、仕事の付き合いとやらで、年に2~3回ぐらいは酒を飲んで帰宅することがあった。

半世紀も昔の秋田でのことである。 いまどきの様に、いたる所に安い居酒屋があるハズが無く、外出先で飲む場所といえばそれなりの高級料理屋であったようだ。
今にして思うに、秋田市の繁華街と言えば、川反(かわばた)であったろう。

飲みなれていない親父が酔っ払っての帰宅ポーズは、ヘロヘロ状態で自転車を押して帰り、自宅の玄関に倒れ込むのが定番であった。 幼かった俺と母で、玄関から寝床まで引きずって行き、寝かせることが大変であった。

そんな親父が、酔っ払った状態で差し出すのが、御土産の寿司折であった。
寿司折と言えば聞こえが良いが、中身は胡瓜か干瓢の海苔巻きである。

当時は、寿司屋といえば時価が相場であり、冷凍設備の整っていない中での具材は酢で絞めた物ばかりである。
現代のように、鮪や鰤等がホイホイというわけにはいかない。 ましてや、運動会だろうが、外出だろうが、弁当を持参していた時代である。 たとえカッパ巻きとは言えど、立派な御土産なのだ。

夜遅く(20時頃のこと)に酔っ払って帰宅し高いびきの親父を尻目に、舌鼓を打ったことは言うまでもない。

克己心

(こっきしん)と読む。 『己に克つ』心である。

93歳で死んだ父が在職中に書き、表彰を受けた作文のテーマだった。
死ぬ数日前まで老眼鏡に天眼鏡を二つも付けて、読書に耽っていた姿を想い出す。

読む本は、歴史物が多かった。
地名の言われ等というものを読んでは、「忘れっぽくなって、覚えられない」とこぼしていた。
カタカナ辞典を片手に、NHKテレビを見るのが好きだった。

「インターネットって何だ??」という質問が、俺をネットの世界に入らせたのかも知れない。
父に言われ、ホームページを作り出して2ヶ月後、父は死んだ。
結局、俺のホームページを父に見せることは出来ず仕舞いであった。

今、俺がホームページを作るのは、父への手紙なのかもしれない。続きを読む

写真を撮ろう-想い出作り

最近、写真を撮っていないことに改めて気がついた。
絵が下手なためか、親父の影響だったのか、写真撮影が大好きだったのだが、最近は撮っていない。
結婚式の写真撮影を頼まれるので、静止画カメラ以外にも、ビデオカメラ等にも手出していたが、最近は数台のフィルムと数台のデジタルカメラを残すだけで、残りは処分してしまった。愛用はガラケーの付録カメラだ。

よく覚えていないが、42歳の厄年あたりまではカメラ撮影を好んでいたように記憶する。 しかし、以降はカメラのファインダーを片目で覗いてもピントが合わせ難くなってきた。 今になって思えば、あれが現在の“眼の異常”の始まりだったのかもしれない。 過去記事:カメラ利用歴

何れにしても、50歳を過ぎた頃には「写真を撮るのは旅行の時」のようになり、普通の風景を撮ることは薄れてきた。
また家族写真等は、被写体となる女将や母がカメラを向けられる事を嫌うようになった為、撮ることが少なくなった。


最近の視力が悪く記憶が悪い俺を振り返ると、父や母そして女将の顔を思い出すのが難儀になったように感じている。 とある瞬間の顔は思い出すのだが、連続的に思い出すことが出来ないことに気がついた。若い頃には意識したこともないことで、若い頃に出来ていたのかは知る由もないが、少なくとも今はできない。
思い出すのは“ナマの顔”よりも、“写真に映った顔”であることが多いことに気がついた。

最近では、女将の写真を撮ることは皆無と言える。 旅先での写真がせいぜいで、顔が写ったものは少ない。
姉さん女房の我が家だが、「死ぬのは俺が先」と勝手に決めてきた。
しかし、順番が狂った場合、女将の顔を思い出せないのは悲しいじゃないか。
マイナンバーカードを申請する為に撮った写真は、似ても似つかぬものであった。仏壇に飾っても「あんた誰」だ。

 アルバム整理するのが面倒になってきた昨今では、ガラケーで撮った写真をメール添付してネット上のアルバムに送信してオシマイなのだが、あれは止そう。 本当の家族写真を撮ろう。
ブログ等のWebに掲載しても差し支えのないような程度の写真は、当事者が逝けば共に風と共に去るだけだ。

 コンパクトなデジカメを身近に置いて、なにも無くても女将を取りまくろう。
“林家ペー・パー子”じゃ~ないが、カメラを向けることが常態化すれば抵抗を受けなくなるだろう。
 電子書籍を読む為に買ったタブレットだが、アルバム代わりにはもってこいである。拡大して見られる。

関連過去記事
思い出写真を撮ろう
写真の保存方法(?)
写真の整理でも
カラーフィルムの話
定点観測の奨め
人相は変えられる続きを読む

後生掛温泉の今昔

WikiPedia引用
後生掛温泉(ごしょうがけおんせん)は、秋田県鹿角市(旧国陸奥国、明治以降は陸中国)にある温泉。
岩手県と秋田県県境の八幡平(火山)山頂から少し西側に位置し、八幡平アスピーテライン沿いにあり、山の中にしては比較的交通の便がよい。
「馬で来て下駄で帰る後生掛」と謳われたように、昔から効能の高い湯として知られている。
後生掛温泉は昔からの湯治宿で、一温泉一軒宿だが、外見上は、「本館」「新館」「湯治棟」に分かれている。
湯治宿の面影を色濃く残す湯治棟は自炊が基本。
宿舎の床下に蒸気を通して暖める「オンドル構造」になっていて、自室で寝ているだけでも湯治効果があるという。
大浴場はかっては全て混浴であったが、今は男女別となっている。
木製の箱の中に頭部だけ出して入り、蒸気で温まる「箱蒸し風呂」は、昔、「原始トルコ風呂」と呼ばれていたころから後生掛温泉の名物となっている。
ほかに「露天風呂」「泥風呂」「火山風呂(気泡浴)」「打たせ湯(滝風呂)」などもある。日帰り入浴も可能。
源泉は4種類。宿の裏側には泥を吹き上げる墳気口や泥火山などを観察できる「後生掛園地」がある。
宿は秋田焼岳の登山口にもなっている。また足湯も設置されている。
高温の源泉を利用して作られる温泉卵が名物。
硫黄分が多いため、卵の殻が黒く変色しているのが特徴である。

後生掛の地名の由来には以下のような伝承がある。
約300年前に、三陸地方出身の九兵衛というものがこの地に住んでいた。九兵衛が重病で苦しんでいた際、恐山巡礼の途中の女性の看病を受け、回復後その女性とともに暮らした。3年後、三陸から九兵衛の妻が当地にやってきた際に、巡礼の女性は源泉地の谷に身を投げた。それを知った九兵衛の妻もまた、「後生」を「掛」けて源泉の谷に身を投げた。以降この地を後生掛と呼ぶようになり、また源泉をオナメ(妾)の湯、モトメ(本妻)の湯と呼ぶようになった。
昭和34年9月3日、後生掛温泉を含む八幡平温泉郷国民保養温泉地に指定。

DSCF0074


鍋・食器等の炊事道具一式をレンタルすることができ、食材も湯治部の売店で揃えることができる。
通の人達は、家族が運転する車で送迎され、一週間程度の食料を持参する。
持参した食料が無くなる頃、「湯治見舞い」と称して、食料を持った家族が遊びに来るという仕掛けなんだね~。

昔の後生掛温泉です。
古い写真をデジカメで写したので、画像が荒れてます。
orig_DSCF0052

下は、当時の蒸し風呂です。
orig_DSCF0054


この写真を撮った頃の後生掛温泉HOTELに行く道は、現在と違います。
現在は、ホテル部の東側(山側)に立派な道路が通じていますが、あの道はアスピーテが開通した際に作られたものでしょう(たぶん?)
以前、後生掛温泉に行く道は、現在の浴場棟に抜けるように通っていました。
後生掛温泉HOTEL山水館の在る位置付近に赤川温泉・澄川温泉から抜ける道があり、その道から小川に沿って小道が有り、蒸ける沼の中を通って湯治部小屋に出ました。
湯治部小屋からは浴場棟が正面で、湯治部受付棟やHOTEL棟は見上げる位置にあり、湯治部しか泊まったことの無い子供の小生には「千と千尋の神隠し」のホテルのように見えました。
くだんの蒸し風呂は、前述の湯治部小屋よりも手前側の蒸ける位置に建てられた小屋に在りました。5年程前に訪問した際には、小屋の残骸木片が有りました。
写真でも判るかと思いますが、6個設置されていましたね。



関連過去記事:八幡平温泉郷の昔

写真共有サイト「フォト蔵」
2001年09月-秋田八幡平
2004年07月-秋田八幡平
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