無無無庵

(むさんあん) - 思考が無く - 躰が無く - 心が無く
トキメキ団塊親父のセカンド・ステージ - 退職爺のボケ封じ

想い出

東北一週ヒッチハイク

昭和42年頃。登山に明け暮れた高校生活であった。

当時の東北の山、それも朝日連峰の縦断といえば、一度山中に入れば一週間は出てくることは無かった。
たまに人に会うと、御互いにこれから走破する道について情報交換をしながら、テントの中で一杯の親交を深めたものである。
まだ高価であったトランジスターラジオで、翌日以降の天気予報を確認しながら、行動予定を作成した。
そんな山行を重ねる中、翌日などに道端に打たれた雉 (所謂、ウンコ) を発見すると、昨日一緒に酒を交わしたあいつだな(?) などと思い出し、妙に懐かしさを覚えたものである。

そんな登山をしてはいたが、平地の移動はもっぱら国鉄を利用していた。
当時は、新幹線なぞ有るハズも無く、特急を利用できる身分でもない学生は、一週間は乗車できる均一周遊券ばかりに乗っていた。
均一周遊券で乗車できる急行と普通列車を乗り継ぎ、夜になると長距離電車のルートに出て寝る。 そして、途中で同じルートを逆行し、朝になれば前日に乗車した駅に降り立つという旅である。

食事と言えば、最寄の公園あたりで飯盒炊爨である。

そんな貧乏旅行を送った高校生活の最後に、楽な旅をしたいと思い立ち、実行したのが東北一週のヒッチハイク旅行である。

けなげな貧乏高校生は、あふれる同情の中で色々な車に簡単に乗せてくれるであろうという淡い期待は見事にハズレであった。
殆どの車は、ヒッチハイカーなどは目にも留めてくれず、ただ行き過ぎる。
当然であろう。
出立した時は、登山用のキャラバン・シューズであったものが、蒸れを防止するために 「農作業用の草鞋状のサンダル」 に変わった。
パンツ等の代えが底を突き、洗濯の時間が無いため海水パンツに変わった。
フロに入る時間も金も無く、海水パンツのまま川で行水していた。
そんな格好で、ただひたすらに歩く日々であった。
浮浪児状態になれば、ますます乗せてやろうなどと思う車は減る一方であった。

そんな中でも、長距離のトラック・ドライバーは止まってくれることがあった。
そして、向かう方角が合えば、気持ち良く乗せてくれた。
また、乗せてくれた人の多くは、食事まで奢ってくれた。

 特に記憶しているのは、夕方に乗せてくれた秋田県大館市の電気屋さんが、自宅に泊めてくださったことである。
汚らしい風体の小僧に入浴させてくれ、一泊2食付きの御接待をしてくださった。

以前のTVで 「田舎に泊まろう」 という番組があったが、人情というものは嬉しいものである。

おいらが 「他人様を親切にしたい」 と思う気持ちは、この時の体験からでているものであると考える。
所持金3千円の旅行ではあったが、7日で完了できた東北一週ヒッチハイクである。

八幡平温泉郷の昔

ディープダンジョンかづのサイトで、花輪線について書いているのを見て、爺の古いアルバムを引っ張り出してみた。
昭和39年頃(たぶん) の八幡平登山の際、各地を写した写真を見ていたら、以下の物を発見したのでお見せいたしたい。
なお、昔のアルバムに張ってあったものを、デジカメで複写したため、写りの悪いことは勘弁願いたい。


後生掛温泉
orig_DSCF0052

左側の上の建物が、現在のホテル部である。
その下で、一番左に移っている建物が、当時の湯治部受付棟である。
その下、真ん中付近の黒いトタン屋根が、湯治部1号館(?)である。
画面中央の緑の屋根が、大浴場であり、その左にちょっと出っ張った屋根が、当時できたばかりの女性専用の浴場である。
更に右側には、現在も流れる小川にボッチャンできる便所である。

また、ホテル部の(向かって)右側のデッパリは、ホテル部専用の浴場。
その右側が湯治部3号館(?)となる。(現在の、若草寮)
ちなみに、湯治部2号館(?)は、この写真には写っていないが、湯治部受付棟の左側となる。

当時、後生掛温泉への通行は、湯治部2号館(?)と、蒸し風呂棟の間を抜けて受付棟と湯治部1号館(?)の間に出た。
現在のホテル部に抜ける道路は、無かった。

当時の道の脇(山側)には、祠状になった部分に冷たい水が湧き出しており、沢蟹が採れた。
この湧き出し場所は、現在のホテル部に通じる道路工事でつぶれてしまったが、湧き水は今も昔の道に沿って流れていた。
また、写真からも判るとおり、オナメ・モトメから峠の茶屋に抜ける道は、現在はホテル部の上から通るが、当時は、大浴場の前を通っていた。
この写真は、毛氈峠に抜ける登山道そばの小さな社付近から撮った。

当時の蒸し風呂棟の内部である。
orig_DSCF0054

この「蒸し風呂棟」は、湯治部3号館(?)よりも、更に大沼よりの(当時の後生掛温泉への侵入路)の左側に有ったが、現在は痕跡する無い。
おそらく、現在のホテル部への新道工事の際、沢蟹が採れた湧き水と伴に撤去されたのであろう。


玉川温泉

orig_DSCF0053

こちらは、現在のたたずまいと、大差はない。

この写真は、どこかのパンフレットをパクっていた。

-昭和10年の八幡平の写真  八幡平小学校郷土資料室

はじめての海水浴

当地の石川県で3回目(女将は4回目) の夏を過ごしているが、海を見る機会が少ない。
転居以来、花火見物を兼ねて和倉温泉に行った際に、2度だけ見た。
東洋経済新報社による「住みよさランキング」2012年度版で第2位となった野々市市は、山も海もない平地である。
県の西側は海と思い、過日は北陸鉄道浅野川線に乗り海に向かい終点に行ったのだが、海岸には程遠かった。
横浜在住時は徒歩20分で八景島シーパラダイスに、鎌倉在住時は30分で江ノ島に着く場所に住んでいた者としては、なんとも淋しい。
昭和40年代にはPADI (スクーバダイビングの指導団体) のアドバンスド・ライセンスと潜水士の国家試験を取得し、三浦半島を庭に伊豆半島の海を潜っていた頃の抜けるような青空が懐かしい。

思えば、初めて海水浴をしたのは秋田市の新屋(あらや、新屋浜) か浜田(はまだ) という浜だった。

小学2年生の1学期に、親父の転勤があった。
秋田県鹿角郡という海の無い土地から秋田市に住み、初めて海を見た。
軟弱で風邪をひくことの多かったおいらは、鹿角郡に居た頃には湯治に連れて行かれたが、海のある処に出てからは海水浴で躰を鍛えようというのが親父の方針だったらしい。
子供の頃は、どのようなルートで海水浴場まで連れて行かれたのか記憶にない。


今になって地図で眺めると、当時の住居からだとJRで2駅かかることがわかる。
自家用車を持たなかった親父の自転車の後ろにしがみついて、あの距離を移動したということだ。
そう言えば、おいらを海に浸からせながら親父が投げ釣りをしていた景色を思い出す。
また、おいら一人で自転車の三角乗りをして海に向かったことがあり、途中の工事現場(?) で気絶し、作業員に助けてもらったことがあった。 今にして思えば、あれは熱中症だったのだろうか。

秋田の短い夏の間に有効に海水浴させる為に、親父が勤務の日にはお袋が連れて来てくれた。 と言うことは、1時間に1本程度の国鉄で2駅乗り、駅から2Km以上掛けて浜まで歩いたということだ。 道行に慣れてからは、下浜海水浴場(4駅目のJR下浜駅) にも行った。
海水浴というものの、昭和30年頃の秋田の浜に海の家が在るハズも無く、おむすびと水筒を持参して、誰もいないような浜に行って 海に浸かっては日光浴をするだけのことだ。 
当時は40代だったお袋は、トイレ等はどうしていたのだろうか(?) と思いながら、今更ながら感謝する。
釣りを楽しめる親父は それなりに時間つぶしができたようだが、水着を着ることもなく日焼け予防の手ぬぐいを被って何も無い浜のハマナスを座布団代りに座り見守ってくれたお袋を思い出す。

夏祭りの夜店で、浮き袋を買ってもらった。 後になって思えば、人造ゴム製の安物だったのだろう。
さっそく持参しての海水浴ということになり、泳ぐ(?) ということを体験している時、たまたま泳いでいた人が 「ぼうず、空気が抜けているゾ」 と教えてくれた。 慌てふためいて浜までたどり着いたが、あれで泳げるようになった。
秋田のひとけの無い浜で、鈍色の空を背景に砂浜に腰かけていたお袋の姿が溺れかけたおいらの目に懐かしい。

今、秋田と同じ石川の鈍色の空を眺めながら、海と お袋が居ないことを不思議に思う。

後生掛温泉に行く

八幡平アスピーテラインは、岩手県道・秋田県道23号大更八幡平線の内、八幡平市緑ガ丘から国道341号交点を呼ぶ。

1976年(昭和51年)10月1日、西根八幡平線として岩手県、秋田県の双方から県道に認定され、当時は有料道路であった。 (現在は、無料開放されている。)
その道路が工事中の昭和30年代には、トロコ温泉が路線バスの終点であった。

年代が新しくなってからは、玉川温泉までの路線バスが通行しだしたようだ。
 しかし、当時は工事中であった玉川ダムに行く工事用のトラックとか、ジープに便乗していたような記憶がある。
勿論、観光バスなどが通るはずも無い。
後生掛温泉に行くためには、1日に一往復程度のトロコ温泉行きのバスに乗らなければならないのであるが、それに遅れてしまった場合は志張温泉あたりで一泊していた。
運良くトロコ温泉行きのバスに乗れても、子供の足ではそれからの徒歩が厳しいものであった。
そのため、玉川に向かう道路を歩き、途中から赤川温泉に向かって山道を入り込んだ。
そして赤川温泉に一泊していた。

当時の赤川温泉(現在も有るのか、爺は知らない)は、小さな川の流れに沿った鄙びた温泉であった。
八幡平山頂を目指す登山客か、山菜取りの地元の人が利用する程度だったのではなかろうか?
米を研ぐ小川の水でどぶろくを作っていた
また、金精様(こんせいさま)と呼ぶ男性器を形取った木製の物が風呂に数個浮かべてあり、男性が女性目掛けて(当然、混浴)押してやり、女性がそれを受け止めれば、合意が成立するということだったらしい。

翌日は、赤川温泉を発ち、澄川温泉を経由して、大沼に出、やっと後生掛温泉に到着できたのである。

後生掛温泉への入り口は、現在ではアスピーテラインから、ホテルの表玄関に到着するが、当時は大沼から(現在の)山水館前を通り、今でもあるせせらぎに沿って熱湯の沼のほとりを、沼にはまらないように気配りしながら湯治部の付近に到着していた。

当時のせせらぎは、現在とは少し流れの場所が変わっているが、沢蟹を採って遊んだものである。
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故郷の言葉『かてもの』

過日のNHK「歴史秘話ヒストリア」だったかしらん(?) で、上杉鷹山を見た。
上杉鷹山は、米沢藩再生のきっかけを作った江戸時代の名君で、「生せは生る 成さねは生らぬ 何事も 生らぬは人の 生さぬ生けり」の歌を残している。 
その名君が藩再生を行う際の手引書が『かてもの』という物だったことを聞き、懐かしい故郷の言葉を思い出した。

御飯のオカズ(副食) を何にするか(?) は、迷うところだろう。
結婚した頃には東京市江原区に住んだお袋だが、太平洋戦争後は故郷の秋田県に戻り すっかり秋田弁になったお袋がぼやく言葉は、『キョウノかてものハ、ナンニスベカ』だった。
WikiPedia:かてものによれば
  • 糅物…主食である穀物とともに炊き合わせを行う食物。転じて、飢饉などで食糧不足に陥った際に主食を節約するための代用食となる食物(救荒作物)のこと。「糧物」とも。
  • 江戸時代に米沢藩重臣・莅戸善政(大華)が著した飢饉救済の手引書。

お袋が(秋田県で) 言う『かてもの』が『糅物』と同意語とは考えにくいのだが、懐かしい響きの言葉を思い出せた。

秋田市探訪

2006年(平成18年) 初夏、青春時代を過ごした秋田市を訪ねた。
これで秋田も見納めという思いで、八幡平鹿角市に向かうついでである。

久保田藩の城下町とはいうものの、小さな町だな~と改めて思う。 市町村合併により人口は少なくはないが、中心部は昔の佇まいである。

千秋公園の名が知れている久保田城跡を訪ねる。
P1000064

春さきには蓮の花が咲き乱れる堀だが、すでに特別のことは無い。

P1000066

久保田城の二の丸になるのだろうか。 佇まいは昔のママだ。
ふと高校時代を思い出すほどに、なにも変わっていない景色。

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久保田城を通り抜けると細い階段がある。
リンゴ箱に砂を入れて、この階段を上り下りしては足腰を鍛えたものだった。

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単線の鉄道が走る鉄橋は、悪行の想い出が多い場所だ。
  • 鹿角郡花輪町から転居したばかりの頃、近所の子供と喧嘩したところ親が怒鳴り込んできた為、親父に木剣でしこたま殴られ、おいらは悪くない..ということで家出した時に渡った鉄橋。
  • 自転車のブレーキ管に火薬を詰めて作った鉄砲の試し打ちをした鉄橋下。
  • 渡っている時に列車が来て、慌てて逃げた鉄橋の避難スペース。
  • 大水の後は、大漁を狙って魚釣りした鉄橋下。
彼方に臨む大平山(たいへいざん) は、母校の校歌にも歌われていた。
P1000082

母校を覗き、市内をブラブラ。 仕上げは、秋田市の繁華街である川反(かわばた) に立ち寄り。

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写真共有サイト「フォト蔵」
2006年09月-秋田紀行

鹿児島に行く

1973年(昭和48年)、同期入社した NM の結婚式の司会として鹿児島に行った。
1968年(昭和43年)に東京支店に同期入社した者は、NM、YY、SN、AY、SI、S?、MY、HY、私、の9名と、それまでのオリンピック景気採用時の1/8程度であった。 9名の内、4名が結婚式に参列することとなった。 
当初は4名でカーフェリーで行く計画だったが、台風来襲の天気予報があり、司会のおいらが到着しなくてはマズイという。 結局、おいらは夜行寝台で、他の3名が別府迄カーフェリーで行くこととした。

夜行列車には付き物の酒と、女将自慢のツマミ持参で寝台車に乗り込む。
寝台車と言えば聞こえが良いのだが、安月給の頃のこと、3段ベットの最上部が指定席であった。
既に酔っぱらって乗車した列車が動き出す頃にはベットで爆睡し、目覚めた時には呉駅を通過した頃だったろうか...暗がりに燃える工場群の焔が美しい。
やがて明るくなり寝台がたたまれた頃、山口県の某駅から子連れの女性が乗り合わせた。
聞けば、遠洋航路に乗船している旦那が、鹿児島港に停泊することになったので面会に行くのだそうだ。

寝台特急の終着駅(鹿児島中央駅か?) まで迎えに来てくれたNM の車で、自宅に向かう。
到着迄かなりな時間が掛ったが、自宅は川内(せんだい) だったようだ。
司会者到着ということで、NM の家族に大歓迎されて自宅入り。
親父さんが沸かしてくれた五右衛門風呂で寝台車の汗を流し、ズイキの煮物をツマミに飲んだビールの美味い事。
手水場は、母屋の別棟に在り、下には跳ね避けに竹の葉を敷かれていた。 秋田なら杉の葉なのだが..
翌日は無事に台風を乗り切り到着したカーフェリー組を向えて、結婚式場の下見。 
そして翌々日の本番を済ませて、またまた大宴会である。
明けて4日目は完璧な二日酔い状態でNM の家を後にし、九州観光に向かうことになった。
現在なら、酒気帯び運転で逮捕間違いない。 後日談によれば、1人当たり焼酎を1升は飲んだとの事だ。

鹿児島が実家のHYを残し、YY、SNとの3人で熊本に。 第1目的地はYYの妻実家が有る壁湯温泉
阿蘇山 ⇒ 天草 ⇒ 長崎 ⇒ 別府 を周遊し、カーフェリーにて帰郷。 
==・==・==・==・==・==・==・==・==・==・==・==・==・==・==・==・==・==・==・==・==・==・==・==・==・==・==・==・==
9名の同期入社中
  • MYは、自爆交通事故で死去。
  • S?は、入社の翌年に希望退職。退職後、広島で再就職したらしい。
  • AYは、58歳で上司と喧嘩して故郷の青森に帰郷し、連絡取れず。離婚したきり。
  • YYは、2度の結婚をし、現在は円満そう。心臓悪し。再就職?
  • HYは、年齢は1つ上だが、虚弱体質の為学年落ち。再就職?
  • SIは、連れ合いにガンで先立たれたが、再婚。悠々自適生活の模様。
  • SNは、入社後数年に希望退職し、元気そう。
  • NMは、元気そう。再就職?

写真の整理でも

撮影と言うか(?)、カメラ弄りというか(?)...とにかく写真が好きだったおいらは、随分と写真が有る。
いや、正確には有ったと言うべきかもしれない。

中学校の北海道への修学旅行だったと思うが..貰った小遣いを叩いて旅先(たしか、昭和新山) の土産物屋で小さなカメラをフィルム込みで五百円くらいで買い求めたのが初めてマイカメラだった。
戦前からツアィススの蛇腹式カメラを使っていた親父の影響があったのだろうが、カメラを持つことはステータスだった。 当時は子供がカメラを持つことは贅沢であり、周囲の男子からは羨望の目で見られていた。
高校生となってからはアルバイトをして貯めた金で、新製品が出るとあれこれとカタログを見ては買い替えていた。
社会人になってからは、年に2台以上は買っていた。
元来が新しい物好きなところに、カメラのメカニックなところが性に合ったのだろう。
フィルム式の時代には、現像・焼き増し代がバカにならない費用であったが、結婚式の撮影を依頼される等を繰り返しているうちに一端のカメラマン気取りで、撮影しまくりの貧乏所帯は女将に苦労させたことと思う。
8mmカメラに目を向けた時もあったが、現像代が掛かることに変りは無く、動画というものには関心を持てなかった。
その後、ビデオカメラも弄ったが、結局は静止画が好みであることを知った次第である。

そうこうしている内に、デジタルカメラが出現した。 新しい物好きとしては すぐに飛びついた。
現像・焼き増し代が不要なことは、貧乏人としては大歓迎したが、まだまだデジタルカメラは色々な面でフィルム式カメラには追い付かない頃だった。 しかし、あっという間に、取って代わってしまった。
以降は、デジタルカメラで遊んでいる。

これまで二百台を超えるカメラを買い使ってきたが、新しい物に買い替えると古い物はすぐに売却してきた。
下取りと言えば聞こえが良いが、質屋に行ったきりのものも随分とあった。
今になってみれば惜しいことをしたと反省している。古いカメラの陳列を試みたが、ネット上でもカタログデータが無い。 現在手元には、4台のフィルム式カメラ(内、1眼が1台) と、6台のデジタルカメラ(内、1眼が1台。2眼が1台) が残るだけだ。 しかし、視力低下の為、ファインダーのついている物以外は殆ど使わない。

撮影した写真はそれなりに有るものの、フィルム式カメラの写真は可哀そうな状態になっている。
ラミネート式アルバムに張った写真は空気に触れない為、色彩等の劣化は少ないが、古いアルバムに糊付けしたような写真は『何じゃこれは?!』という状態だ。
ネガを保存していた物は、退職前に東京で ネガ ⇒ デジタル化 したのだが、元のネガが劣化していた為、期待するほどの再現力は無かった。
デジタル化 を行った後には古いネガを処分し デジタル写真で見るようにしたので、現在手元に残る写真は少ない。 暇になって思うには、なんとも淋しいかぎりである。
アルバムに張りつけた物の中で『これだけは』と思う物をデジタルで接写することを考えるが、何とも面倒なので保留・検討の状態だ。

最近デジタルカメラで撮影した写真は、プリントアウトされることすら無く、アルバムに張られることが無い。
パソコン内の写真フォルダーに格納され、偶に見られているだけだ。
当地に転居してからはデジタルカメラで撮影することは旅行等の場合だけと少なくなり (カメラ持参で散歩する気にならない) 、殆ど携帯電話の付録カメラで撮影するようになった。 携帯で撮影時は構図確認できないので、見当で構図。 このブログの写真は、携帯写真ばっかり。
携帯電話のカメラで撮影するとパソコン内の写真フォルダーにすら格納せず、携帯メールでフォト蔵に飛ばしてしまう為、手元には何も残らないという状態である。

パソコンは勿論、インターネットも触らない女将が写真を見たいと思っても 見る手段が無いという現状は困ったな~ということで、少し写真の整理をしようと思う次第である。

自動巻き腕時計

高校に入学した祝いに、自動巻き腕時計を買ってもらった。 「セイコー5」 のネーミングだったような記憶。
今では電波腕時計が大半のようだが、当時の自動巻き腕時計は最先端であった。
WikiPedia:腕時計によれば
1955年には国産初の自動巻腕時計「セイコーオートマチック」が発売され、その後も「グランドセイコー」、「シチズン クロノメーター」など、スイス製に匹敵する精度の国産時計が登場した。
東京オリンピックの公式時計にも採用されたセイコー社の腕時計は、おいらにとってステータスであった。
自動巻の中でも、日付けと曜日の入る物に憧れたが、当時の秋田市では注文発注であった記憶。
そして、入手した憧れの品は、こんな感じだったな~  曜日は、日本語表示に変更できたな~

その腕時計をはめて上京した頃の周囲では、既にクォーツ腕時計が流行はじめていた。
しかし、セイコーの自動巻き腕時計は質草にもなりうる時代であったので、だいぶお世話になったものだ。
外国製の腕時計やライター・背広が、立派な質草になった時代だった。

そうこうしている内に、デジタル腕時計が出回るとともに、自動巻き等の機械式と呼ばれる腕時計は影が薄れ、質草になるような腕時計は見かけることが少なくなった。

最近では、携帯電話やスマホに付いている時計がある為、腕時計をしない者が多いと聞く。
腕時計を持っていない営業マンが、わざとらしくスマホを取り出して時計を確認する姿はいただけないと思うのは、おいらだけかな~
現在は、退職前から使っている電波腕時計(針付き、日付け・曜日入) を利用しているが、視力の低下とともにデジタル表示(黒色) の日付け・曜日が見づらくなってきた。

また、昔のような自動巻き腕時計に戻ろうかと思う今日この頃である。

映画の記憶

「徒然キング」氏のブログで 初めての映画は『紅孔雀』 という記事を拝読した。

紅孔雀とは、なんとも懐かしいテーマである。
映画というものを あまり見る機会の少なかった我輩だが、紅孔雀くらいは名前を知っていた。

新諸国物語 紅孔雀


映画を見る機会が少なかったのは、居住地に関係するのかも知れない。
小学校2年生の1学期迄を過ごした秋田県鹿角郡花輪町は、小さな町であったが近隣に尾去沢鉱山があり、鉱山労働者向けの娯楽施設であったのか 小さな映画館が1軒だけ在った。
「映画というものは不良が行く場所」 という考え方だったらしい親父が、1度だけ小学生の我輩を連れて行った映画は 「地球は生きている」 というドキュメントであった。
秋田市に転居してからは、そんな親父に内緒で お袋に映画に連れて行かれた。 我輩は隠れ蓑だったと思う。
美男子が好きだったのか、長谷川一夫氏と大川橋蔵氏の映画ばかりだったように記憶している。
雪之丞変化』や『新吾十番勝負』あたりが名前を憶えている映画だろうか。

1人でも映画館に行ける年代になってからは、学校推薦の映画館で『スーパージャイアンツ』などのSFめいた映画を見に行っていた。
当時の秋田市内の繁華街には5軒ほど(市内全体には10軒近く)の映画館があったが、学生の身分ではその地域が出入り禁止であった為、名の知れた映画は見ることができなかった。 日活系の映画館の前では、補導担当の先生が目を光らせていた。
それらの映画館で文部省推薦の映画が掛った場合は、学校の許可書を得てから やっと見ることができるということだ。

そんな我輩でも、高校時代には 「映画鑑賞愛好会」 的なことで、秋田市立の文化会館で毎週1度の映画を見ていたのだが、上映されていたのは全て2流映画だった為、題名は忘れてしまった。

ボケ防止の為、昔 見た映画でも思い出したら、書き留めることにしよう
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