私は、元気な婆です。
年並みの病気を持ち、薬を貰いに通院することがあっても、大病はありません。
ある日、嫁が婆の誕生日を祝ってくれました。
同居している倅夫婦と孫まで参加してくれ、それは楽しい誕生会でした。
婆は とても健康で、誕生会に並ぶ食べ物は何でも美味しく食べました。
入れ歯が無いので、少し固めのステーキでもパクパクと食べます。 御寿司もケーキも しっかり食べました。
それはそれは、楽しい誕生会でした。
誕生会も終わる頃、孫が言いました。 「結婚したい人ができた」
孫の結婚話は知っていました。 倅夫婦と孫が話しているのを、立ち聞きしてしまったのです。
そして、「結婚しても この家では狭いから同居できないね」 とか 「婆の部屋が空けば同居できるけど、まだ元気だね」 とかのヒソヒソ話も聞いていました。
3世帯が同居している婆の家では、これ以上は部屋を増やせません。
誕生会が終わった後、婆は布団の中で考えました。
孫が結婚したら同居するのが倅夫婦の夢であることを、以前から知っていました。
自宅で見取られて逝くのが婆の家庭の習わしでした。 でも、時代は変わっているのです。
結婚した孫が倅夫婦と同居できるように、婆が老人ホームに行って部屋を空けよう。 そう決めました。
孫が結婚後に別居を望んでいるのなら兎も角、倅夫婦と同居することは素敵です。
婆が家を出れば、倅も孫も幸せになれるのです。 婆の老い先は知れたものだとも思いました。
翌日、倅に老人ホーム探しを頼みました。 倅も孫も、婆が老人ホームに入ることに反対でした。
でも婆は、倅夫婦と孫の希望をしっかりと覚えていました。 そして、決意は変わりませんでした。
老人ホーム探しは、簡単には見つかりませんでした。
ボケても無く、大きな健康上の問題も無い婆が入居できる条件の老人ホームは少なかったのです。
高額な費用を払えばよろしいのでしょうが、婆の家には そんな金が有るはずもありません。
でも、狭い我が家を見て、可愛い孫のことを思えば 我儘は言えませんでした。
やっと見つけた老人ホームは、山の中に在る6畳一間だけの汚い建物でした。それでも十分と思い、決めました。
婆の一人暮らしに何が必要なものか..と思いました。
御近所の人達には、老人ホームに入ることを教えませんでした。
「南の暖かい国に行って暮らすことにした」 と言うと、お友達は羨ましがりました。
倅の運転する車に積み込んだ、着替えを持っただけの引っ越しでした。
婆を連れて行く車の中で倅は、申し訳ないと繰り返していました。 でも、内心はホッとしていたのかも知れません。
そして今、婆は訪ねる人とていない山里の老人ホームで、見知らぬ人達と日を送っています。
楽しかった誕生会を思い出しながら、何歳になったのかは忘れてしまいました。
溢れかえる自然の中を散歩して疲れて眠ると、死んだお爺さんが訪ねてくれるだけです。
すぐ婆が爺のところに逢いに行きます。 ごめんなさい、心配ばかり掛けてしまって
老人ホームの名は「楢山の家」というそうです。 気が向いたら訪ねてください。
WikiPedia:楢山節考
年並みの病気を持ち、薬を貰いに通院することがあっても、大病はありません。
ある日、嫁が婆の誕生日を祝ってくれました。
同居している倅夫婦と孫まで参加してくれ、それは楽しい誕生会でした。
婆は とても健康で、誕生会に並ぶ食べ物は何でも美味しく食べました。
入れ歯が無いので、少し固めのステーキでもパクパクと食べます。 御寿司もケーキも しっかり食べました。
それはそれは、楽しい誕生会でした。
誕生会も終わる頃、孫が言いました。 「結婚したい人ができた」
孫の結婚話は知っていました。 倅夫婦と孫が話しているのを、立ち聞きしてしまったのです。
そして、「結婚しても この家では狭いから同居できないね」 とか 「婆の部屋が空けば同居できるけど、まだ元気だね」 とかのヒソヒソ話も聞いていました。
3世帯が同居している婆の家では、これ以上は部屋を増やせません。
誕生会が終わった後、婆は布団の中で考えました。
孫が結婚したら同居するのが倅夫婦の夢であることを、以前から知っていました。
自宅で見取られて逝くのが婆の家庭の習わしでした。 でも、時代は変わっているのです。
結婚した孫が倅夫婦と同居できるように、婆が老人ホームに行って部屋を空けよう。 そう決めました。
孫が結婚後に別居を望んでいるのなら兎も角、倅夫婦と同居することは素敵です。
婆が家を出れば、倅も孫も幸せになれるのです。 婆の老い先は知れたものだとも思いました。
翌日、倅に老人ホーム探しを頼みました。 倅も孫も、婆が老人ホームに入ることに反対でした。
でも婆は、倅夫婦と孫の希望をしっかりと覚えていました。 そして、決意は変わりませんでした。
老人ホーム探しは、簡単には見つかりませんでした。
ボケても無く、大きな健康上の問題も無い婆が入居できる条件の老人ホームは少なかったのです。
高額な費用を払えばよろしいのでしょうが、婆の家には そんな金が有るはずもありません。
でも、狭い我が家を見て、可愛い孫のことを思えば 我儘は言えませんでした。
やっと見つけた老人ホームは、山の中に在る6畳一間だけの汚い建物でした。それでも十分と思い、決めました。
婆の一人暮らしに何が必要なものか..と思いました。
御近所の人達には、老人ホームに入ることを教えませんでした。
「南の暖かい国に行って暮らすことにした」 と言うと、お友達は羨ましがりました。
倅の運転する車に積み込んだ、着替えを持っただけの引っ越しでした。
婆を連れて行く車の中で倅は、申し訳ないと繰り返していました。 でも、内心はホッとしていたのかも知れません。
そして今、婆は訪ねる人とていない山里の老人ホームで、見知らぬ人達と日を送っています。
楽しかった誕生会を思い出しながら、何歳になったのかは忘れてしまいました。
溢れかえる自然の中を散歩して疲れて眠ると、死んだお爺さんが訪ねてくれるだけです。
すぐ婆が爺のところに逢いに行きます。 ごめんなさい、心配ばかり掛けてしまって
老人ホームの名は「楢山の家」というそうです。 気が向いたら訪ねてください。
WikiPedia:楢山節考
こうした内容の難題の表現方法は、作家・深沢七郎さんは小説の形式で『楢山節考』として題し表現されて、
つたない私の読書歴の中で、日本文学の中で突出した作品である、と絶賛している次第です。
そして映画の木下惠介・監督の『楢山節考』(1958年)の作品は、
私が中学生でしたが、出演された田中絹代さん、高橋貞二さんに震えて感動したり、
何よりも作品の内容に感銘し、涙を浮かべたりしていました。
重く辛い社会の切実な難題・・貴兄が童話の形式で綴られたこと・・
数多くの60代のブログの投稿文を読ませて頂く中、感動を受けたひとつです。